映画【鬼滅の刃】人気悪役の猗窩座(あかざ)の最期に見る、自己受容のプロセス~前編~

毒親の因縁を断ち切って自由なあなたを生きる「オリジナルライフメソッド」香月映見です。

今日もブログを読んでくださり、大変ありがとうございます。

前回ブログに書いた通り、実際に映画【鬼滅の刃】の二回目を観に行ってきました~!

えっと、ブログを書くためではなく、単に自分がもう一回観たかったからです😃

既に一回鑑賞した娘からは「え、ほんまに2回目行ったんや!なっがい映画やのに、ママもようやるね~」と感心されています(汗)

前回のブログは、こちらから
映画【鬼滅の刃】人気悪役の猗窩座(あかざ)と目的・手段の逆転について
https://original-ownlife.com/blog-2025-10-2/

さて今回のブログは、映画【鬼滅の刃】の人気悪役・猗窩座(あかざ)の最期を題材に、自己受容の重要性、毒親運営の機能不全家庭育ちの方々の生きづらさ代表2パターンとその回復プロセスを書いてみようと思います。

【鬼滅の刃】好きな方もご興味ない方も、楽しめる内容を心がけておりますので宜しければ最後までご一読下さいね。

◆猗窩座(あかざ)の最期

自らの意志で鬼をやめる という自死なんです。

彼がそこに至るプロセスと、クライアントさん方々がカウンセリングで自分を取り戻して行かれる「あの家で長年やってきた役割をやめよう」と決意されるに欠かせないのが「自己受容」のプロセスです。

◆猗窩座(あかざ)が鬼となった絶望感と投影

彼が体験したこと、それは心身を削られるような恐怖と痛みを伴った出来事です。

彼がまだ少年だった頃の、病弱な父親の自死。犯罪を重ねる息子の未来を苦にし、自責の念からの死でした。

そこに、父の薬代のために窃盗を繰り返していた累犯者の自分を拾い、未来への希望をもたらしてくれた道場を経営する師匠とその娘(後に猗窩座のフィアンセとなる恋雪)が、現れます。

そして彼が18歳の青年となった時、師匠とフィアンセが理不尽にも毒殺されます。猗窩座(あかざ)の強さに嫉妬した、隣の道場の仕業でした。

若き彼にとっては、抱えきれるはずもない耐えがたき二度もの深い喪失感と絶望感です。

これら愛する人々の死は全て「自分のせいだ」と猗窩座は、思い込みました。そうとしか、思えなかったのでしょう。

彼はその喪失感と自分の無力さに押し潰され、「大切な人たちを二度も守れなかった弱い自分」をどうしても許せず、復讐のため鬼へと変貌します。

そしてその後100年以上に渡り、そのどうしても認めたくない自分の弱さを「すぐ簡単に死んでしまう人間ども」に投影し続け、その弱さを忌み嫌い、殺戮を繰り返すのです。

◆ 猗窩座(あかざ)が執着したフィジカルな強さとその悲しみの解放

既に強さトップ3に位置する鬼の彼は、これ以上強くなりようがないというほど肉体的な鍛錬を積み、鬼となったことで身体の再生能力も手に入れています。

もはや、無敵と言えます。

ただ鬼となった時点で、「なぜオレは強くなりたかったのか」という動機や目的自体をスッカリと忘れてしまっているため、そのひたすら肉体鍛錬と人間殺戮の生き様には全く終わりが見えません。

鬼殺隊との戦いで遂に首を切られた彼は、それでも無理やり首を繋ぎ直し尚も鬼として生きようと踏ん張ります。

その時かつてのフィアンセ・恋雪が現れます。

「ありがとう。もう充分です」という彼女の言葉で「強くなりたい」本来の動機と目的を思い出し、彼は恋雪の腕の中で号泣の隙間から声を振り絞ります。

「ごめんごめん、守れなくてごめん。大事な時に傍にいなくてごめん」

「(幸せにする、一生守る、道場を継ぐ)約束を何一守れなかった。許してくれ。オレを許してくれ」

そう、彼はとてつもなく、そしてどこまでも果てしなく、ただただ悲しかったのです。

鬼になることを選んだ彼の心を支配していたのは、人間への憎しみや恨みではなく、実は深淵たる悲しみだったのです。

己の身が砕けるほど悲しかった、という感情を全身全霊で感じることを自分に許可した時、彼はやっと自ら「鬼をやめる」決意が出来ます。

そして100年以上も続けて来た、本来の自分ではない「鬼」という役の身体を自ら破壊し、自らの意志で降板するのです。

人はこの「負の感情」が余りにも大きすぎる場合、自分の命そのものが持って行かれるような恐怖に苛まれます。

つまり、自分の感情自体が怖くて堪らない、そんな状態です。

だから怒りや憎しみという激情を自分の中に創り出し、ありったけの力でその痛みからくる恐怖を封印します。

◆私たちがあの家で担い演じ続けて来た「役割」

このブログを読んでくださる方々は、恐らく機能不全家庭に育ち、未熟で不安定な情緒を持ついわゆる毒親から様々な仕打ちを受けて来られたと思います。

親子関係というのは、私たちが10歳くらいからの全ての人間関係の初期設定となります。

実はこの「初期設定」の時点から、私たちはあの家で生き延びるために何らかの「役」を見つけ、そして演じ始めております。

猗窩座が人間→鬼という、本来の自分ではない者を生き始めたのと同じ背景があの家にはあったからです。

そして私たちはその困難で不安定な親子関係に於いては最適だった「役」を以て、10歳くらいからずっと人と関わっていく、ということになります。

その初期設定を、自分ではない「役」のままひたすらアップデートしていくのです。(無意識です)

例を挙げますと、

ずっと抑圧的で支配的な親に従ってきた人は人間関係でいつも傲慢かつ狡猾な人に捕まり、軽んじられたり、裏切られたり、蔑ろにされるという体験が多いかと思います。

あの家の中では弱者という「被害者役」を演じ続け、自分を護って来たからです。

逆に、だらしなく全く成長の無い子どもみたいな親を助けに助けて来た人は、わざわざ火中の栗を拾いに行ったりして大やけどしながらも平気なフリをして「私がやらなければ」と、いつも戦うような生き方になってしまうことが多いです。

あの家の中では強く在る「強者」という「犠牲者役」を演じ続け、自分を護って来たからなんです。

(あ、私はモロこれだったんですよね)

◆「自分を護る」って?

必死に何かを演じ続け一体何を護っていたのかというと、「自分の命」です。

よって「弱者」「強者」どちらの「役」をしていたとしても・・・

それは幼子だった私たちがあの家で自分の命を護るための決死の生存戦略だった、と言うことです。

つまりは本当に、命懸けで徹することを自らに課せた「役」だったのです。

苦肉中の苦肉の選択ではあるのですが、しっかりと自分自身の特性を活かせる「役」を選びます。

猗窩座が自身の特性「フィジカル強し」を、活かしたように、です。

そして兄や姉がいた方の場合は、それらにバッティングしないよう仔細に観察・分析した上で選択した「役」なのです。

そこまで、するんです。

だってなんせ、命懸けですから。

次回、後半では「弱者」「強者」一見すると両極端な両役の共通点や、その回復プロセスについて書いていきますね。

「一度話してみよう」と思われる方、私はそのあなたの勇気に敬意を払い、
心から歓迎し精一杯あなたに伴走させて頂きます。