毒親の因縁を断ち切って自由なあなたを生きる
オリジナルライフメソッド
心理カウンセラー 香月映見
(こうづき えみ)です。
略歴
・1972年8月生まれ、関西出身。母の胎内で2回死にかけ、仮死状態で生まれる
以降、香港に来る25歳まで、激化の一途を辿る父のギャンブルと沸点不明な母のヒステリックな言動に振り回されながら生きることになります。
・1977年~1985年 幼少期 自閉的な幼稚園時代から、一気に分かりやすい優等生に変身した小学校時代。
家では父のギャンブルが始まる。
母はヒステリー、父は自殺をほのめかす ”死ぬ死ぬ詐欺”。不安定になっていく家中で「祖母と妹を守らねば」「だから私はいつもちゃんとしてなきゃ」と自分を律する日々。
・1987生 中学3年生 多数からの無視に遭い、初めて真剣に死と復讐方法を考察する毎日
・1989年 高校2年生 父のギャンブルが過渡期を迎え出した高校時代。遅い反抗期、自暴自棄で諦めた進学と抑えがたい破壊衝動。破壊したいのは…「ちゃんとしていない自分」。
・1996年 24歳 自らのお金で中国語専門学校を卒業するも、就活ノイローゼとイタすぎる失恋その①を同時期に体験し、倒れる
1997年2月 古新聞の小さな募集広告をキッカケに香港へ。機能不全家庭からの離脱。ここからも続く逆境
・1998年 26歳 父と似た人と結婚、2000年に出産、そして夫のギャンブル始まり別居(後に離婚)
・2002年 32歳 とにかくお金が無く、頭がオカシクなりそうな日々から幼い娘との別離を選ぶ
・2003年~ 33歳~ 香港へ来てまだ5年。異国での母子家庭運営開始(現在も運営中)
・2007年~2012年 35~40歳 リーマンショックを経て、過重労働で過労死寸前
・2012年 40歳 転職。きょうだいの精神疾患をキッカケに、心理学、哲学、スピリチュアルの世界などを独学で学び始める
・2019年1月~3月 46歳 自身の子育てがひと段落し、娘が海外の大学へ進学。
私はそれと前後し実親とのやり取りから、今まで抑圧してきたマグマが一気に噴出。怒りの火だるまとなり、同時期にイタイ失恋その②を体験。打ちのめされもう立っていられなくなる絶望感から、カウンセリングへ駆け込む
・2019年4月~2022年3月 47歳~49歳 日本福祉大学通信学部入学~卒業(精神保健福祉士コース)
・2022年現在 解決型心理カウンセリング
毒親の因縁を断ち切って自由なあなたを生きるオリジナルライフメソッド を提供しています。
このような方にカウンセリングを提供しております
- とにかく怒りが湧き上がる方
- なぜかしら涙が出る方
- 人が信用できない方
- 人と親しくしたいのに、どうしたら良いか分からなくなる方、なぜか嫌われてしまう方
- 相手が許せない方(親やパートナー)
- 毒親との関係に悩んでいる方
- 子育てに不安を感じる方
- いつも「自分が悪い」と自分を責めてしまう方
- いつも「お前が悪い」と周りから責められている方
- 自分に自信がなく、何が大切で何がしたいのか分からなくなる方
- 人の意見や態度に左右され、何が正しくて何が間違っているのか分からなくなる方
- 自分なりにとても頑張っているのに、なぜかいつも行き詰まってしまう方
- 様々な過酷な出来事から、自分を見失い絶望感に苛まれている方
- いつも悩みから解放されず、自問自答で同じところをグルグル回ってしまう方
お試しカウンセリングは、90分 1,000円(税込)にて提供させていただいております。
詳しいプロフィール
・1972年8月誕生!したのですが・・・既にもう2回も死にかけている私の魂の設定。まるでこれから始まる逆境多き人生に耐えられるか否かを試すような、そんな出生でした。
母から聞く私の出生エピソードは、「それでも本当に生まれたいんだな?」とまるで自らを試すような試練を伴うものであり、振り返るとそれでも「いまここ」まで生きて来た自分がとてもいじらしいです。
8ヵ月で心音停止し、数分を経て辛くも蘇生。母の胎内で予定日から2週間も長く粘り、羊水に大便。それを口と鼻から吸い込み自業自得に窒息していた私は、仮死状態でやっと出てきました。頭に吸引分娩特有の大きなコブをつけ、お医者さんに足を持たれ逆さ吊りにされて背中を叩かれ、やっと弱々しい産声を上げたそうです。
その後ミルクも母乳も飲まず、赤ちゃん用豆乳だけを細々と飲むというストイックな嗜好で、生まれてからも修行を続けていたようです。その影響で、身体は全く標準に届かぬまま今に至ります。とても身体の小さい人間です。(現在148センチ、42キロ)
家族構成は、サラリーマンの父、看護師の母、そして同居していた父方祖母、4年後に妹が加わります。
・1977年~1979年 幼稚園では椅子に座り本ばかりを読む、子供と遊ばない子供でした。
私はとても自閉的で、静かで冷めた子供でした。園では友達と遊ばず、椅子に座り毎日ひたすら本を読んでいました。卒園前に幼稚園中の本を読み尽くし手持無沙汰だったので、仕方なく「あいうえお」の表を縦・横両方暗記しました。先生からいつも手帳に「エミちゃん、お椅子にばかり座っていないで、お友達と遊びましょうね。先生はとても心配しています」と書かれていました。「積み木、お絵かき、ままごと、どれもこれもくだらない」そう思っていたことを、今でも覚えています。それに引き換え、本の世界はとても静かです。思う存分空想に耽ることができます。私にとって人と群れて遊ぶことは、雑音に苛まれること。とても苦痛でした。
今思うに、恐らくこれが私の本質です。
妹が生まれ、私が4歳の頃から父のギャンブル・借金が始まります。当時の総額は数十万程度。
・1979年~1985年 小学校時代 「ちゃんとしなきゃ」そればかり思っていた優等生。機能不全家庭でのサバイバルで、私が選んだ役割は「ゴミ箱を抱えたヒーロー」
幼稚園時代からの乖離が激しいのですが、私は急に積極的な子供に変身し学級委員などのリーダーを歴任。授業では真っ先に手を挙げ、成績表に現れる大変分かりやすい優等生となりました。父兄参観、父兄面談、運動会などの学校のイベントでは常に人の注目を引き、両親の自慢の娘となりました。私はこの短期での豹変について、長い間理由を探そうとしませんでしたが、心のどこかでは「なぜだろう」とずっと考えていた気がします。
大人になり心の勉強を始めた頃、その答えに繋がるものが朧げに見えてきました。私は機能不全化しつつある家庭内で、ヒーロー型という役割を見つけそれを演じ切ることで辛そうな父母を何とかしよう、と孤軍奮闘していたようです。
母が不規則な勤務の看護師だったので、私は家で祖母と過ごすことが多かったです。お寺の出のお嬢さんで、とても温和な人でした。
「おばあちゃんも悲しんでいる。」私はそのうち大きなゴミ箱を抱えながら、ヒーロー役を続けることになります。そのゴミ箱には、家にいる大人3人分の愚痴や不平不満、不安、嘆き、悲しみがいつも入っていました。
一杯に溢れても頑張って持ち続けないといけない。
そう、私はいつも「ちゃんとしてなきゃ」いけないのです。母がいないときは、私が祖母と妹を守らねばならないからです。大好きな母が夜勤に行く淋しい夜、いつも私にそう頼んで行きます。
私は、その責務を全うせねばなりません。
・父のギャンブル激化、リビングに溢れる母の金切声。家でいつも怯えていた小学生の私
父のギャンブルが継続、激化しつつあり、母が急に激高しヒステリックになるのがとても怖かったのを覚えています。夜になり父が帰宅すると、「離婚」「死ね」「役立たず」など母の金切声が、毎日のようにリビングに溢れていました。
甘えること、駄々をこねること、グズグズ泣くことなど、それらは母だけが知る沸点に到達したとき、「しつこいっ!」と大声で一括されます。家族全員に向けられるその一喝タイミングが、私には全く読めません。なので4つ下の妹がグズりだすと、口を押さえたい衝動に駆られました。
・母から父への全くする気の無い「離婚カード」に利用される日々
・借金がバレそうになる度に繰り返される、父のプチ家出と自殺予告。私が電話に出ないと父は自殺してしまう!
・「エミが帰ってこいというから」という理由で、汚いなりをして家に戻ってくる父。私は自分が父に味方したことで母から憎まれ殺されるのではないか、と怖くて仕方なかった。
・私は私のままだとダメだ、と愛されない思い込みを自分の中で育てていく私
母がヒステリックに叫ぶ日がますます多くなりました。
そして「あなた達(私と妹)が生まれた頃が、一番幸せだった」のお決まり嘆き台詞が登場します。
この台詞は以降30年に渡り絶望のお経のように繰り返し唱えられ、長い間私を縛る強い呪詛となりました。
それは「お母さん、私ここにいるよ!でも今の私じゃダメなんだ。意味ないんだ。価値ないんだ。私、何とかしないと。私、もっともっと頑張らないと!」と私の中で変換され、深く埋め込まれていきます。
親に依存するしかない非力な子供にとって、その親の状態が悪いことは自らの死に直結します。
その後の人生を生きるのが不自由になる「信念」(潜在意識下の強い思い込み)は、子供が自らの命を賭けて丹念に作り上げたものです。
年代は飛びますが、下記では5年前にカウンセリングに臨んだ私の状態を書いてみます。
上述と対比いただくと、私の潜在意識に埋め込まれた「不自由な信念」の威力とそれを解き放ったカウンセリングの効果が分かりやすいと思います。
・延々と約40年も「ゴミ箱ヒーロー」をこなし続けた私は、カウンセリングにより遂にそれを手放します。私にとってその行為は、母から愛されることを諦めるのと同義語でした
ゴミ箱を抱えたヒーロー。実はこの役割、私はつい3年前にお別れしたばかりなのです。
詳しい経緯は後述しますが、私は娘の子育てがひと段落着いた40代半ばで、頭がオカシクなるほどの親への怒りに苛まれます。そして怒りの火だるまのままカウンセリングに駆け込み、堪らずゴミ箱を投げ打ちます。
ヒーローはもう過労と徒労の極みで、それを持っていられなくなりました。
そしてカウンセリングが進むにつれ、やっと自分に対して荷物を下ろすこと、鎧を脱ぐこと、そしてそれらを手放すことを許せるようになります。そしてやっとのことで心から自分に対して「もういいんだよ。本当によくやったよ。ここまでよく生きて来たよ。ありがとうね」と言えるようになります。
・私46歳、カウンセリングで気づいた衝撃的な真実その①
ずっと親のために頑張ってきたつもりが、実は全て自分のためだった!私は40年間も「不自由な信念」が織りなす、自作自演の負のパターンを繰り返していた
「私が何とかしなければならない」
これが、カウンセリングに臨みカウンセラーが私との会話で初めて拾ってくれた、私の中に強固に根付く信念(潜在意識下の強い思い込み)でした。全くの無意識なのですが、実際に会話の端々にこの台詞が出てくるのです。(と他人ごとのようですが、私のことなのです。それくらい、全く気付かないまま言動に現れるのが『信念』です)
この思い込み故に、40年も無意識化で私が繰り返していた負のパターンはこのようなものです。
「親に幸せになって欲しい」→なぜなら親が苦しいままだと『私が困る』のです。
それをまた「私が何とかしなければならないから」です。
私は親の人生に、必要以上に介入し続けました。非力な子供の頃は、自慢の娘となり親の人生に希望をもたらそうと不断の努力を惜しみませんでした。大人になってからは正しさの物差しを振り回し、親の生き方そのものを是正しようと粉骨砕身してきました。その先には「私が何とかした!」目的達成後の報酬があるはずなのです。
・私46歳、カウンセリングで気づいた衝撃的な真実その②
辛く苦しい負のパターンを手放したくない、私の利得。そうしていると親と繋がっていられる、そして「私が何とかしたら」きっと愛してもらえる
幼少期から約40年に渡り、「私が何とかしなければ」と親の人生を背負い、鎧を着込み原家族を守り続けていました。背負い慣れて当たり前になっていたその重み、もう年季が入りすぎ肌とこの上なくフィットしているのに何故か私の自由を奪う鎧。ただ、どんなに重く辛く感じても、本当は「私が」それを手放したくなかったのです。「私が」それを持っていたかったのです。
そうしていることで、親と繋がっていられます。役に立つこと、自慢の娘でいることで愛してもらえます。
そしたらそのうち・・・いつかきっと母から、こう言って貰えるはずなのです。「エミがいてくれてね、お母さんの人生、本当はずっと幸せだったの。生まれてきてくれて、ありがとう」って。
・助かりたくない人を助けることは出来ない。何をどんなにしても、何も変わらないという事実を私は受け止めました
大人になり親に対してありとあらゆることをし尽くした私は、もう出来ることは何もない状態となりました。
現実は、何も変わりませんでした。
母は相変わらず「こんな人生嫌だ、死にたい」ままなのです。父も同じです。
ただそのことと、私自身の価値とは実は何の関係も無かったのです。
・カウンセラーの伴走により、自分の中の未完了な感情を拾い満たす勇気が生まれる。それが「怖れ」を手放す一歩となる体験
自分は一体何に囚われていたのか、何がどうなって自分の中に強固な思い込みが作られたのか、そんなことを一つ一つ紐解くカウンセリングの時間は長年の謎が解ける快感と共に、私自身が置き去りにしてきた未完了の感情を知る大切な時間となりました。一つ解けると違う強固な結び目もほころび始めます。
カウンセリング後の日常には気づきが溢れており、自分の怖れの正体やそれが一体どんなプロセスを経て生まれて来たのかが明るみに出始めると、不思議と段々怖くなくなるのです。
もし怖くても平気です。カウンセラーが私を応援し伴走してくれています。人は正体が分からぬものを暗中模索している時に、大きな怖れを感じます。自分の位置が分からないからです。
そしてその怖れを隠すために怒ったり、無理やり笑ったりします。恐怖を誤魔化すためです。
ただカウンセラーの伴走で過去を遡り自分を知ることによって、怒りで蓋をしていた悲しみや苦しみ、ミジメさを見る勇気が湧いてきます。私がそれを見てあげないと、一体誰が見るんだ?そんな想いに駆られ、自分へ関心し続けること自体が楽しくなってきたりします。自分って思っているより結構奥深いのです。そんな心の仕組みが腑に落ちると、自分以外の人も同じに違いない、大切な人に歩み寄りそしてその気持ちに寄り添いたい、そんな風にも思えるようになります。
人は自分に出来たことは、人にも出来るのです。
さて、また私の子供時代に話を戻します。もうしばらくお付き合いいただけると嬉しいです。
・1985年~1988年 イジメにより、初めて真剣に自殺と復讐を考えた中学時代
やはり部活も勉強も頑張る、物分かり良くしっかりちゃんとした私。学級委員、部活のキャプテン、生徒会役員もしていました。しかし中学3年生になり、人生初のイジメ(集団無視)に遭います。そのメンバーに親友だと思っていた子が入っており、それはもう筆舌しがたい辛さでした。
涙は数か月で出なくなりました。その後は思考が研ぎ澄まされたようになり、自殺の仕方と相手への復讐方法を幾つものパターンに分け、それぞれを綿密に考察しノートまとめて毎日検証していました。
・イジメに対する幼馴染Y子ちゃんの心からのギャン泣きは、私を「いまここ」に連れ戻してくれました。どう考えても、いまは自殺より受験だ
私の実家付近には、たくさんの幼馴染達がいます。中でも一つ上のY子ちゃんとは、とても仲良しでした。
私達は、お互いが2~3歳の頃に知り合いました。公園で、彼女が緑のフェンスにもたれていたその出会いの場面、真っ白いワンピースを着ていた彼女と交わした会話を、今でも鮮明に覚えています。
「お姉ちゃん、一緒に遊ぼう」
「お姉ちゃんじゃないよ、Y子よ。まだ幼稚園も行ってないの」
私がイジメに苦悶していた頃、Y子ちゃんは高校へ上がり、一緒に遊ぶ時間も少なくなっていました。
そんな夏のある日、Y子ちゃんが家族旅行のお土産を持ってうちに来てくれたのです。玄関先で少し話しているうちに、私はつい「今みんなに無視されてて、めっちゃ辛い」とこぼしました。お土産の説明をしようとする彼女の顔が見る見る歪み「え?イジメ?無視?なんで?なんで?なんでエミちゃんがそんな目に遭わなきゃいけないのぉぉぉ」と泣きだしたのです。彼女が涙したたる両手で握りしめたお土産の紙袋は、もう皺くちゃです。それは、私の母が家の奥から驚いて飛び出して来るくらいの大音量でした。
その夜、思ったんです。「こんなになりふり構わず泣いてくれる友達がいる。ワタシ死んでる場合違う!」
そして私はまだ自分の胸の内にあった溢れる悲しみと怒りを、自分が今すべきこと、つまりは高校受験勉強に全投入しました。「無視したヤツらの誰よりも良い高校へ行ってやる」
その願いというか復讐は叶い、私は志望校以上の高校に入学できました。そして振り返ると、この高校での日々が将来外国で働き暮らすようになる自分の原点となるのです。
・父のギャンブルは継続、更に激化。闇金5~6社に手を出す。借金額はかつての数十万から数百万単位となる。
・日々急に激高し続け、ヒステリックな罵詈雑言により言葉で何度も父を刺し殺す母。
・母お決まりの嘆きセリフに「家の登記証が汚れてしまった」が追加される。父が何度も担保にいれたせいだ。
・「殺してやる」「死ね」と包丁を持ち、母が父を追い回す度に私は怖くて何もできずにその場にヘタリ込む。
・家の金品が頻繁に無くなるようになる。父が質に入れていたためだ。
・私は、中学卒業式にカメラを持っていけなかった。
・1988年4月 高校入学。そこには海外に触れるキッカケが溢れていた。世界は広い!嬉々として学ぶ私と反比例するかのように絶望的に悪化する家の状態
幼馴染Yちゃんの心からの寄り添いに奮起し、自殺から受験に完全シフトした私は、地元市立進学高校の外国語科に合格。そこには様々な国から来た留学生達との交流や、外国語(英語と第二外国語)に特化した特殊な学習環境が在り、私は中学から引き続き部活に明け暮れる毎日を過ごすことになります。
ちなみにチビですが、部活はバスケ!
・「もう高校生、大人だから」「しっかりしているから」という理由で、私は両親に連れられ母方親戚に対して金の無心をしに行くキャストに加えられるようになる
上手くお金が借りられたら、帰りの車中で「エミのお蔭だ」と褒めてもらえます。利用されているのも気づいていましたが、親の役に立てているのがやはり嬉しかったのです。少なくともその空間とその時間に於いては、両親が「いま」の私の存在を必要とし、存在価値を認めてくれているように思えたからです。
それより何より、自分も人の親となり分かったことがあります。
私はこんなに恥ずかしくバカなことを繰り返す両親の子供なのに、叔父や叔母たちはそれを一切感じさせることなく、幼少期からいつも私を他の親戚と分け隔てなく可愛がってくれました。自分が歳を重ねるごとに、その人間性と愛の深さが分かるようになり、日本へ帰省する度に3か所の叔父叔母を訪ねます。
・闇金からも相手にされなくなった父が、個人高利貸から借金をするようになる。額は数千万単位にまで膨れ上がっていた。
・1989年 高2の夏、遅い反抗期と人生初の自暴自棄。全てがもうどうでもよかった。進学も家も自分も、全てを破壊してしまいたかった
部活も引退し、進学相談が高校で始まりました。大学用の学資保険も父が解約しており、私は遅い反抗期と人生初の自暴自棄期に突入しました。先生との面談も拒否し、帰宅せずそのままバイトに明け暮れ、夜な夜な夜遊びに興じました。なんか全てがもうどうでもよかったのです。飲めないお酒を飲み夜遊びをしていると、しばしば襲ってくる破壊衝動を誤魔化せます。
学歴コンプレックスの強い母からは、毎晩のようにヒステリックに進学について聞かれます。私が口を閉ざし2階の自室に上がろうとすると「大学へ行け!大学なんてどこでもいいのよ!何でもよいから大学に行け!」という怒鳴り声が追いかけてきます。私は「どこでも良いわけがないがな・・・」と思っており、進学資金が無いことも知り、「進学はしない!大学には行かない!」と何度も母に怒鳴り返しました。
ただ心のどこかで、これが母にとって一番の痛手だろう、ククク・・・痛がれ、痛がれ、とほくそ笑む自分もいました。たった1校取り寄せた東北の福祉大学の願書は、誰にも見せずに捨てました。
自分が一体何をどうしたくて、何に対してこんなに怒っているのか、感情に翻弄されるままで考えようともしませんでした。とにかく家にいる時間を減らしたい一心でした。ただ自分の意志でそんな毎日を送りながらも、私は「ちゃんとしていない自分」が怖くて仕方ありませんでした。
・自暴自棄から約30年。46歳のカウンセリングで初めて知った、18歳の自分の想い。それは「報われない悲しみ」
この時から約30年を経て、私はカウンセリングに臨みます。
そこで初めて「あの時の私は怒っていたのではなく、とてつもなく悲しかったんだ」ということが分かりました。そしてそれは大学資金が無いことでもなく、実際に大学進学しなかったことでもなかったのです。我が子の人生の岐路に相談すら出来ないような家庭の状況、家をそんな風にした父母に対して、私は強い怒りで蓋をした大きな悲しみを抱いていたのです。
この出来事は「私はずっと全力で親を助けてきたではないか?なのに『やっぱり』私は大切にされない。『やっぱり』私は報われない」その思い込みを強化していきました。
・1991年~1994年 私19歳~21歳 ホテルは夢の世界!学歴の壁を知る
私は高校を卒業し、大阪の大手有名ホテルに電話オペレーターとして就職。真新しい環境に慣れるまで、数か月生理が止まりました。
私は裏方でしたが、繁忙期には宴会ウエイトレスに駆り出されます。ホテルはそこを訪れる全てのお客様に「あなたが一番です」というメッセージを伝え、夢の空間を提供する場。私はホテルの仕事が大好きになりました。
人は他者から大切に扱われることに、喜びと幸せを感じます。自分の存在意義が気分よく且つ分かりやすく認識出来るからです。逆に言うと、人の悲しみの根源は大切に扱われないこと。
ただやはり学歴の壁があり、電話オペレーターからの他部署への異動は叶いそうにありませんでした。
・父が借金をした個人高利貸からの猛攻が続いていた。私の勤め先にも頻繁に電話があり、自宅や妹の中学、母の職場にも借金取りが来るようになる。
・質に入れられるような物はもう全て既に家から姿を消し、父は母や私達姉妹の財布や部屋の引き出しから金品を頻繁に盗むようになる。盗んだことがバレないよう細工がしてあることもしばしば。
・それに対して母が出した結論は「盗まれる人が悪い」。この頃、母は思考停止を選び自分の人生を放棄したと思われる。
・以降父が逝く2021年まで、私は帰省しても財布が入ったカバンを枕元に置いて自衛を続けることがルール化される。
・母が自身の退職金の3分の1に当たる1000万円を前借りし、父の借金返済に充てたのもこのころ。
・やっと家の名義を夫婦共同から母の個人名義に変更。
私はあの頃の母と同じ年齢になりました。当時の母の言動を思い出すともう「バカとしか思えない」が私の本音。問題の数を上回る解決法があったのに、嘆き喚くばかりで「なぜ私と妹を守ってくれなかったのか?」
・1994年4月~1996年3月 中国には興味ないけど、中国語を勉強しよう!そしてまたホテルの仕事に戻ろう!しかしどう考えてもお金が足らない←転機①
バブルが弾けた後、ホテルは客室の稼働率維持のため中国団体客を取るようになり、中国語を話せる人材に需要が高まりつつありました。
私はホテルを丸3年で辞め、全日2年制の中国語専門学校へ行くことにしました。
中国語を学ぶことで高卒以上の学歴となり、またホテル業に帰り咲くのが目的でした。中国語は高校在学中に第二外国語として齧った経験があります。
両親からは「大学にも行かず、専門学校か?」とバカにされましたが(っていうか、それ私の落ち度か?)、3年間の社会人生活で貯めた自らの貯金100万円ちょうどを、専門学校1年生の入学金と授業料に全額充てました。
しかし、です。2年生時は80万円必要です。その調達目途が全く立ちません。
ただ一つだけ、解決の道があったのです。それは英語科など他の科も含めた全学年約200人の中で成績上位4名に入ること。そうすれば特待生に選ばれ、2年生の80万円が半額の40万円となるのです。
・お金を何とかしようと一縷の望みに賭けた結果、専門学校2年に進学。初めて自分のお金で勉強した2年間。そしてそれが、ホテル就業ではなく以降の香港生活の布石となる人生の不思議
2年生に必要なのは40万円、これならバイトで何とかなる!希望が見えました。それしかないなら、それに賭ける他ありません。諦めたくなかった。
日中はずっと学校だし、バイトできる時間は限られています。良い時給のバイトを見つけました。下校帰り道の繁華街にある、割烹料理屋です。約25年前の時給で1100円でしたから、今から思えばとてもラッキーでした。
毎晩バイトに励みました。こうして努力の甲斐あり4名のうちの1人に選ばれ、2年生に進級。何でもやってみるものです。
卒業直前に全国紙新聞社全国中国語弁論大会で優勝をし、答辞を読ませてもらいました。学園長賞や大阪府知事賞も頂き、努力による達成感をヒシヒシと感じながら、卒業しました。初めて自分のお金で勉強をしたこの2年間は、私の大切な体験の一つです。
そしてこの2年が無ければ、私は香港へは来ていないと思います。
・あんなに専門学校を馬鹿にしていたくせに、私が賞を貰う、答辞を読むと知ると両親は卒業式に来た。
・結婚を予定していた彼とのイタすぎる別れ、そして就活ノイローゼ
学業だけ見れば、順風満帆すぎる2年間です。しかし卒業間近なある夜、当時お付き合いしていた彼から一本の電話がかかってきます。「他に好きな人が出来た」と。
彼とはホテル時代からお付き合いを続け、親同士の顔合わせも済み、お互い結婚を考えていました。途中から遠距離恋愛になりましが、あまり気にしていませんでした。専門学校を卒業したら彼の元へ行き、そこで仕事を探そう、そう思っていました。
別れを告げられた電話のあと、急いで夜行バスに飛び乗り会いに行く私。でも現実はもう微動たりともしませんでした。
それからは悲しみに浸る日々でしたが、就活を始めなければいけません。いざ就活を始めてみて分かった残酷な現実がもう一つありました。
・最高の成績を維持し、学校の広告塔にもなったのに・・・なぜまた「報われない」のか?就活で学校推薦から外され、ホテル面接に落ちまくり、私倒れてしまいました。
間近に迫る卒業式の答辞や賞も、学校から内示を貰っていました。全国規模の弁論大会で優勝し、学校の広告塔にもなりました。
なのに・・・「3年回り道しているから新卒扱いできません」と学校から一蹴され、私は学校推薦枠からは全て外されました。仕方ないので、新聞や雑誌を見て自ら就職活動をすることにしました。
バブルが弾け切り、希望のホテル業への就活は十数社全滅。
やっと社長面接まで漕ぎつけた最後のホテルで性格・適性判断テスト後に「情緒不安定ノイローゼ気味」と評されました。「あなたは身体的に(148センチ)、とても表には出せない。小さいとお客さんが遠慮するんだよ。しかもノイローゼだと本当に使い道がない」とのこと。
のろのろと面接室を後にし、ホテル内の公衆電話から友人に電話し、泣き喚いたのを覚えています。何を言ったのかは、よく覚えていません。そして帰りの満員電車で、視界が壊れたテレビのような砂嵐になりました。私は貧血を起こし、倒れてしまいました。
もうホテルはいい、諦めよう。身長だって、好きでチビでいるわけではない。どうしようも無いことを言うな!そうだ、方向を変えよう。「とにかくどこかに就職しなければ」と、数日寝込んだ後にそう決意しました。
その後、中国関係の旅行会社から内定を貰いました。学校に伝えると「是非そこにしてください。業界では有名な大手ですよ!」とのこと。「何にも助けてくれなかったのに、また広告塔か?」と辟易しました。
・1996年4月~1997年1月 私24歳 何とか貿易商社に就職。そしてこれが、学んだ中国語と同じく香港へ来る大きな布石となる人生の不思議
新聞広告で見つけて「これで最後にしよう」と思い面接に行ったのが、大阪船場にある小さな羊毛貿易商社でした。この会社の募集条件は「未経験者歓迎、中国語話せると尚可」。
私は新卒扱いされず就活で苦労しましたが、ここでは「うちは中途採用が主だから、異業種でもあなたみたいに社会経験のある人の方がいいんです」とのこと。捨てる神あれば拾う神あり。正しさもその逆も、人の数だけあるようです。
この会社に決めました。学校は残念がっていましたが、もう私には関係ないことです。卒業するのですから。
この会社では先輩方々に恵まれ、貿易実務をスポンジのような吸収力で修得しました。様々な国で買い付け、日本に輸送されてくる羊毛を自分に置き換えると、まるで世界を旅しているような感覚になります。物流の手配、全世界共通の貿易用語や仕組み。全てが新鮮で面白い。
そしてこの1年足らずの短い職歴も、私が香港へ行きに大きく貢献することになります。
ただまだ失恋のショックからは、立ち直れていませんでした。
・1996年12月 いつもなぜか滑り込みが幸いする。香港に興味はないけど香港へ行こう!ギャンブラーな父が古新聞から見つけた小さな求人広告により、私は家から離脱できました←転機②
父が古新聞からたまたま見つけた小さな募集記事「日系商社、香港要員募集。英語・中国語できる方。貿易実務経験あれば尚可」
なんせ古新聞なもので、応募締め切りが翌々日に迫っていました。しかも明日は日曜日!でもなぜだか、応募しなければならない、と強く感じました。急いでまた就活写真を撮りに走り、その土曜の夕方に郵便局本局から履歴書を速達で発送しました。
応募には滑り込みで間に合い、そして面接に合格しました。
・1997年2月 中華圏春節(旧正月)直前の香港へ。私のオリジナル人生はここから始まります
25歳の年に、いよいよ香港へ。これが事実上あの実家からの物理的な離脱となり、私の人生に大きく影響することになります。
現在あれから25年。この期間でますます壊滅的となった実家の様子をみるにつけ、「逃がしてもらった」としか思えないのです。
なんとなくですが、島根に眠る父方祖父の導きではないか、と感じます。祖父は野戦病院で医師をし、私の父が3歳の時に亡くなったそうです。私は幼い頃から同居の祖母に促され、祖父のお仏壇にお供え物の上げ下げをしていました。そのせいか、会ったこともない祖父にずっと守られている感覚があります。今も、です。トトロが見える年齢だった頃の私は、ご飯を供えながらお仏壇の祖父と何か話していたのかも知れません。
しかし25年前の当時は「とりあえず30歳くらいまで、海外で働いてみようかな」くらいにしか考えていませんでした。四季の服を詰め込んだスーツケース2つと、当時の有り金30万円全額を現金で握りしめ、私は香港に降り立ちました。この国では、日本本社の面接で1度だけ面識のある上司のみが私の知り合いでした。
・香港に着いたは良いが、本当に全く何も決まっていない現状に愕然。でも若い私には、希望しかなかった。
「うちの会社初の半本社採用・半現地採用扱い。しかも女性初だから・・・でも悪いようにはしない。水飲んで暮らせとも決して言いません」と日本から送り出されました。実際に香港に着いても、本当に住まいも給与も決まっていませんでした。結構驚きました。よくこんな条件で海外にまで来たと、自分でも感心します。
社会の理をあまり知らず、独身で身軽だったからこその無謀だとも言えますが、私はだからこそ漲った勇気だと思っています。実際に私の中は、全く根拠の無い自信と興奮で満たされていたからです。
そして早速翌日から、連日日付を越えるような残業の激務が始まります。
・仕事で世界各国の人との触れ合い、ものづくりの現場に足を踏み入れる日々。それらは私の今までの暮らしになかったもの。この体験を通じ生まれたのが、オリジナルライフメソッド の根幹となっている、私の想いです。
25年前の1997年2月、私は香港に降り立ち日系の工業系商社に勤める日々が始まりました。この会社には娘を出産した後の2年を除き、計13年お世話になることになります。
仕事を通じて様々な国の人と触れ合い、部品などのものづくり現場に足を踏み入れ、
私の人生観は大きく変わりました。
ネジや軸、米粒ほどの電子部品、どんな小さな部品もたった1つ欠けただけで製品は完成しません。
そうです。いなくてもよい人なんて、いないんです。
そして「誰にでも、その人にしか出来ない大切な役割と使命がある。
自分だけの居場所と強みを見つけることで、それらは必ず凛と花開く。私はそのお手伝いをしたい」
これが オリジナルライフメソッド の根幹となっている、私の想いです。
そしてその オリジナル な人生を創り歩む潜在能力は、全て私達一人一人の中に在ることを確信しています。
・香港に来て早々、またサバイバルな日々。鍵の無いホテルの部屋、3分しかお湯の出ないシャワー、汚れたシーツ。私は会ったこともない会社のお局さんから既に敵対視されていた
最初の10日間、「春節(中国旧正月)直前なので、どのホテルも満室」と、会社が手配してくれたのは雑居ビルにあるドミトリーのような宿。しかも初日から連日日付が変わるまで残業。宿に戻ると、オーナーが就寝し玄関に鍵が掛かっていて入れない!シャワーは3分で止まるし、ドアは薄いべニア板で鍵なし。シーツには血のような汚れ。後日「日本人女性」を目の敵にする香港支店のお局 李おばさんからの洗礼だと分かりました。
これ以降、結構彼女からイジメられます。年齢を盾に「聞こえなかったわ」と仕事上での無視は日常茶飯事、引っ越し祝いだと言って部屋まで持ってきてくれた洗濯機と乾燥機は壊れていたり、日本人の悪口だけは私が解る北京語で皆に話したり。思い切って言い返すと、彼女は「持病の心臓が・・・」と胸に手を当て机に突っ伏します。
・やっと決まった私のアパート。初めての一人暮らし。何もない部屋で、別れた彼を想いながら『竜馬がゆく』を読みふける日々
キツイ宿での10日間が過ぎ、やっと決まった一人暮らし用のアパートに移りました。
取り急ぎベッドと炊飯器だけ購入。家具も食器も無いのですが、毎日の残業と休日出勤で買いに行く時間も取れません。しばらくは何もない部屋の真ん中でスーツケースに腰掛け、カップラーメンの容器でご飯を食べていました。そして毎晩、司馬遼太郎氏の『竜馬がゆく』を読んでいました。別れた彼が大好きだった本。
こんな状態なのに、なぜか辛くはなかったんです。未来を悲観することもありませんでした。今から思えば、我ながらすごいメンタルです。
だって竜馬は「男は事を成すために生まれてきた」と言います。「女の私だって!」狭いボロアパートで、私は意を決しました。
・1998年 結婚
香港で偶然知り合った香港人男性と結婚
・2000年3月 ミレニアムの龍、娘誕生。何の因果か、私は母と同じ年で娘を出産
娘が無事生まれてくれました。まだ建築途中だった新居を買うため、夫の持ち家を売りました。一旦賃貸に移りましたが、激務だった仕事も臨月で辞め、私にとっては毎日娘の成長を見ながらゆったりと過ごすとても幸せな日々でした。まさかこの2年後に私達3人が離散することになるとは・・・
・2002年夏前 私30歳 父と似た匂いの人と結婚後「やっぱり」金銭問題発覚。母みたいになるくらいなら、一家離散を選ぶ ←転機③
ある日夫から「生活費、もう3万香港ドル(約45万円)しかないんだ」と言われました。
持ち家を売った資金を新居ローンの頭金に充てず、2年掛けてギャンブルと無計画な事業に使い果たしたとのこと。「ビジネスを始める。お金のことは何も心配するな」と常々言っていたので、私はそれを信じていました。
ショックと言うより「やっぱり」父と同じ匂いのする人を選んでしまった、とただ静かに私はそう思いました。
「あの実家から逃げおおせたと思うな」それを思い知らされる日がきっとくる、とどこかで分かっていた気がします。
・自分があの『母』みたいになる恐怖。目の前に広がる長い人生の道のりは、私が『母』になるかならないか、その二択のみ
夫は私に復職を迫りますが、本人は働く気配がありません。私の貯金もほぼ使ってしまい、とにかくお金がありません。私の脳内で一分一秒が、お金のことに占有されつつありました。
「このままでは、私は母みたいになってしまう」 自分が夫を憎み恨み、ヒステリックな言葉で滅多刺しにする光景が、消しても消しても脳裏に浮かびます。そしてそれを部屋の隅で怯えながら見るであろう、娘。
母と自分が重なり、娘があの頃の私と重なります。
私にとってその近未来は、お金が無いより何より、叫び出したい衝動に駆られるとてつもなく恐ろしいものでした。ここから私は「とにかく、『母』にならないようにしなければ。絶対に道を間違えてはならない」と、細心の注意を払いながら、一歩一歩自分の人生を歩くことになります。
・カウンセリングで分かった、私の凄まじい母への囚われと恐怖
それから約15年後に臨んだカウンセリングで分かったのは、この私の凄まじい母への囚われと恐怖です。
母を反面教師にしたとしても、私の前には別の道が何本もあるはずです。それが『母』になるかならないか、
たった二択しかない異常さに、当時の私は全く気づきませんでした。
・私が選んだのは、あの『母』が決して出来なかったことをする道。幼い娘との別離、夫との別居。そして暮らしの立て直し。絶望的にお金が無かった。
夫と離れることにしました。これだけが、父に対して母が決して出来なかった選択です。
本当にお金が無かったので、親しくしていた義妹に飛行機代を借り、私は2歳半の娘を日本の実家に一年預けました。母がちょうど早期退職をしたばかりでした。孫に対しては、母からあまり毒が出ません。そして私はすぐに夫と別居し、一人で香港のサービスアパートメントに暮らしながらかつての職場に復職。娘が日本に馴染まない場合は、チェックアウトしすぐに傍にいられる体制にしました。
・母の日に義母宅を訪れ、事情を話す。優しい義母を泣かせてしまう罪悪感、だからこそ誓えた「娘は必ず連れて戻ります」の決意表明
娘を日本に預ける直前の母の日の午後、私は一人カーネーションを持って義母を訪ね全ての現状を話しました。
「もう二度と孫娘には会えない」と夕日を浴びながら泣き崩れる義母に「お義母さん、大丈夫です。私、1年後には必ず娘を香港へ連れて戻ってきますから」と告げました。義母は「とても信じられない」というような目で私を見詰め、長い間泣いていました。
・娘との別離を経て、働くことしか考えない毎日
社内を説き伏せ、私を急ぎ復職させてくれた上司。彼への感謝と自身の貯蓄の回復のため、私は毎日ひたすら働きました。月の半分を占める近隣諸国への出張も、精力的にこなしました。あの1年、私は一体毎日どうやって息をしていたのか、1年間暮らしたサービスアパートメントの部屋も、毎日3回の食事も、ほとんど記憶がありません。
・同時期に妹が精神を病み、以降約10年実家に引きこもる
・2003年 1年前の誓い通り、娘を迎えに行き香港へ戻った私を温かく迎えてくれた義母。
彼女の惜しみない全面サポートにより、私は異国での母子家庭生活をスタート←転機④
娘を日本の実家に預けて1年が経ち、私は彼女を香港へ連れて戻りました。娘はこちら(香港)の言葉をすっかり忘れていました。彼女のストレスをなるべく減らすことを最優先にした場合、夫の元に戻るのが最善でした。
私達は再び同居することにしました。しかしやはりお互いが息苦しく、1年後に再別居するに至ります。
継続してフルタイムで働きながら出張をこなす私と、香港に戻ってきたばかりの娘を惜しみなくサポートしてくれたのが、香港人の義母でした。私は自分の不在時の育児を、全て彼女に委ねることにしました。
当時まだ香港へ来て5~6年だった私が目いっぱい働きながら母子家庭運営できたのは、ひとえにこの義母の支えがあったからです。
・2003年~2008年 義母に見る大いなる母の愛。それは彼女が逝く前日まで、私と娘を包み支えてくれました。これが無ければ、私はあの『母』になっていた。
私達夫婦の別居については一切口を挟まず、「あなたは仕事、私は家事・育児。お互い出来ることを分担しているだけよ。だってこの子(私の娘)、本当に可愛いんだもん」義母は何度もそう言います。それから自身が倒れ逝く前日まで、約5年に渡り娘を見てくれました。
その愛すべき者を大切に守り抜く大いなる母の愛に、実は私も結婚当初からずっと包まれていました。それは私が娘を産む前も、産んだ後も、また義母の息子と私が別居しても、何一つ変わることがありませんでした。
義母からのサポートが無かったら、私は娘を連れて日本の実家に戻るという選択をしていたかも知れません。その選択は即ち確実に、私があの『母』みたくなり幼き娘をも巻き込む機能不全の連鎖を意味します。
・2007年~2011年 過重労働と過労死の危機に苛まれる日々
リーマンショックで私の勤め先の基幹事業が無期限停止。新規顧客獲得のため、仕事の拘束時間も泊りがけ出張も大幅に増えました。義母は既に逝き、娘はまだ小学生で手が掛かります。私は残業と出張毎の移動に時間を取られ、溜まった仕事を週末にこなし、毎日3~4時間眠るのが精一杯でした。日中も何だか視界がおかしく、恒常的に頭痛がします。何を食べても味がしない。身体もベスト体重を切っており、息切れが激しく動悸も感じます。過労死が頭から離れず、「私が死んだら娘は・・・」が頭をグルグル回ります。
・過労死寸前の私を救ってくれた古い友人との会話。正気に戻った私は、転職を決意した。
ある夜急に思い立ち、付き合いの長い日本の友人W君に電話をしました。彼は優秀な保険営業マンです。
私は久しぶりなのに挨拶もせず「いま直ぐ、私の給与分が毎月出るような日本の保険に入りたい!娘は親の養女にしてもらうから」と電話口で一方的にまくし立てました。
W君「え、日本に帰ってくるの?娘さんも?養女って?エミはどっか悪いの?」
私「帰らないし、こないだの健康診断問題なかった。何言ってるの?でももうすぐ死ぬもん」支離滅裂です。
暫く沈黙があり、W君が言いました。
「もう一度落ち着いてよく考えてみて。俺また連絡するから。死ぬなよ」とても優しい声でした。
あんなに毎日「死」に怯えていたのに、人から「死」と言う言葉を聞いて目が覚めました。
「毎日、もう何年も、私死ぬかもって思いながら働くって・・・ そもそもおかしくない?」
来年は娘も中学生。難しい思春期に入ります。そうだ、転職しよう! 私は現職に内緒で、猛然と転職活動に入りました。何としても命尽きる前に、転職しなければならない。保険より何より、私はまだ生きて娘の傍にいたい。そんな想いでした。
また死の淵にいた大ピンチを、友人に救ってもらいました。私はこの数年ずっと片足を突っ込んでいた棺桶を、自分の中から一掃しました。
・2012年2月 40歳での転職成功!恩ある上司から、裏切り者扱いされる辛い日々 ←転機⑤
娘が中学に上がるのを機に、40歳で香港にて初の転職。希望年収を少し落とし、内勤中心の繊維メーカーへ転職が決まりました。商社時代にものづくりに魅せられた私は、転職するなら自社製品を作るメーカーへ!と思っていました。扱う商品は違いますが、商社時代に培った生産管理や貿易実務などはそのまま活かせる異業界同職種での転職でした。
復職でもお世話になった上司には、以前から業務量軽減や人員増員を都度相談していました。しかし中小企業ということもあり、どちらも叶わなかったのが現実です。思い切って転職する話をした途端、今まで見たこともないような形相で「この裏切り者!」と一括され、心底驚きました。上司からすると、飼い犬に突然手を噛まれた衝撃があったのだと思います。それでも決心を変えない私に対する上司の怒りは段々大きくなり、親しい業者さんや顧客との会食時や社内の飲み会などの席でも、嫌悪感を露わに「こいつは裏切り者だ」と言われ続ける日々には、涙が出ました。
私はそんなに悪いことをしているのか?しかし何としても転職せねば。それには私の命と娘の暮らしが懸かっています。
私の転職前後は、かなりヘトヘトでした。古巣での仕事引継ぎをやっと終え、翌日からは新天地での仕事引継ぎが始まりました。新天地での引継ぎが始まった頃、父が持病の悪化で片足膝下から1度目の切断。私は実家が大変な時期に帰れない罪悪感もあり、母から懇願されるままに50万円を海外から送金します。
私が怒りの火だるまとなり、カウンセリングに駆け込む悪夢は、ここから始まります。
・2012年11月 正式に離婚。夫には娘の父として、得意な家事で活躍してもらう日々を継続。「親父の味」が大好きな娘。彼女には、決して父性欠如の愛着障害になって欲しくない。
夫とは、この年に正式に離婚。別居して既に10年、よって手続きだけしたという、感覚でした。仕事は全く続かず、相変わらず競馬新聞に赤線ばかり引いていますが、夫は家事の達人なのです。掃除、洗濯、洗濯ものを畳むこと、料理、何をさせても非の打ちどころがありません。
彼には月~金まで私と娘の自宅に来てもらい、夕飯の支度と掃除をしてもらうことにしました。夫としての期待はもう何もありません。ただ娘に対しては、父として関わりながらその存在と愛情を示して欲しかったのです。
その存在を母のエゴと都合で抹殺することは、私のような父性欠如からの愛着障害者を生み出します。
家計は完全に分けており、私は夫の散財からもう何の影響も受けていません。なので夫を憎む気持ちも、排除する気もありませんでした。私からは3人分の夕飯代だけを毎週彼に渡し、他は一切助けませんでした。
離婚手続きを経ても相変わらずパパが毎日家に来てくれるので、娘も嬉しそうです。彼女は、お袋の味ならぬ「親父の味」が大好きです。そんなものはどちらでも良いのです。大切なのは、家族で食卓を囲む事実です。
私達は離婚し夫婦は終わりましたが、今でも父母としては機能し、家族です。
・転職で元気になった私が感じた、きょうだいへの大きな違和感。そして私は突き動かされるように、心の勉強を始めます。私の結論は、母が元凶。
私生活では転職により心身・時間ともに余裕ができ、過労死の危機から脱却出来ました。
そして私は、以前より頻繁に実家とも連絡を取るようになりました。
精神疾患が寛解したきょうだいのM子と話す度に、被害妄想が強すぎ通常の会話が困難であることが気になって仕方ありません。寛解後は抗うつ剤や睡眠薬はもう飲んでおらず、パニック障害の発作を止める頓服だけをお守り替わりに持ち歩いているとのこと。ならば、この会話困難は疾患のせいではないはずです。
「なぜこんなに会話困難なのか」その理由をただひたすら知りたくて、関連すると思われる文献を読み漁り、自身の生育環境が典型的な機能不全家庭であったこと、父はギャンブル依存症という病気であること、母が財力を兼ねた強力な父の助長者であり、M子をも金銭を与え取り込んだ事実を知るに至りました。
・2012年~2016年 母は癌や心臓などに関わる大病に次々と罹り「お金が無くて不安だ、何をどうしたらいいか分からない」と縋るような声で私に電話を掛けてくるようになった。
・2015年~2018年 助かりたくない人を助けようと粉骨砕身の私もまた、被害者ポジションにいた。ひたすら父母に関わり続けてしまう私の中の謎を可視化してくれたカウンセリング
「親を助けるため。親に幸せになって欲しいから」、実家の収支把握、家計整理、母とM子の金銭的な切り離し、親の貯蓄計画、障がい者になった父の近未来に於ける施設選定や見学など、ありとあらゆることに着手。私はこの3年間で、膨大な労力と時間を親のために使いました。思いつくことは全て実行しました。
「もうあの頃の私ではない。今の私ならきっと親を、母を救える」私にはその自信がありました。のちにカウンセリング過程で紐解けてきましたが、私は役に立つことで親から認められ、愛されたかったのです。またその土台となっているのは、私の無意識下に深く埋め込まれた「私が何とかしなければならない」という強い思い込みでした。
・父のギャンブルが終わっても、実家の家計の崩壊は全く改善されていなかった。苦労したはずの母は、まるで父の如く、息を吐くように嘘をつく人間になっていた
実家の家計整理で見えてきたのは、父母で合計5000万円あった退職金が無計画な散財でゼロになっていること。
貯金が50万円を切っていること。長年共働きでしたので、父母の年金は豊潤で合算すると月額で35万円もあります。おまけに母は看護師パートをしており、その収入が毎月15万円ほど。合計50万円もの現金を以てしても、持ち家のある老夫婦の生活費用が不足。不足分は毎月母のクレジットカードを使用しており、それをM子にまで渡し3人で乱用している事実。明らかに異常です。
・実家の家計整理で、急速に悪玉化する私の立場。カウンセリングを通じて見えた、家族内で繰り返す負のパターン。被害者で居続けたい父母らは、決して助からない選択をし続け、そして被害者は加害者を必要とする
「3人」の金銭繋がりに切り込んだ頃から、母に頼まれて行ってきたはずの家計整理に於いて、私の立場は急激に悪玉化していき、「3人」から敵視されるようになります。
これもまたカウンセリング過程で客観視できたのですが、思い起こせば原家族とは何事もいつもこの負のパターンが発動していました。この世には、「助けて!」と叫びながら決して助からない選択をする人がいるのです。被害者でいたい人達です。被害者でいるには、苦しく辛くなくてはなりません。よって助からない一択です。
また被害者でいるためには、加害者が必要です。そこが私の常駐ポストです。
・カウンセリングで見えた、罪悪感を手放さない私のメリットは、父母に関わり続けるということ
カウンセリングに臨むまで、この繰り返す負のパターンに全く気づきませんでした。なぜなら私には「私が何とかしなければならない」を強固に支えるもう一つの深い思い込み「(父母が苦しいのは)全て私のせい」があったからです。その加害者的罪悪感は私に、父母と関わり続けるというメリットをもたらしていました。
・2018年5月 25年ぶりに香港で偶然の再会を果たした私と高校クラスメイトのP君。私達は1年かけて、少しずつ旧交を深めていきます。
私は偶然にも香港で、高校クラスメイトの男性と再会。彼P君とは在学時あまり話した記憶もなく、卒業後は連絡も途絶えていました。私たちは異国での再会を大いに喜び、幼馴染のような気安さと懐かしさで1~2ヵ月に一度、会社帰りに食事をしながら話すようになりました。
意外とグルメでウイスキーにも詳しく、アジア以外にも駐在経験のある彼の話は、いつも私の気持ちをリフレッシュしてくれました。後述しますが、この再会のご縁には感謝してもしきれません。彼はきっと、私を助けに来てくれたのだと、そうとしか思えない展開が起こります。
・2018年夏 カウンセリングで見えた、母と私の共依存関係。苦しいのに!傷つくのに!離れられない
やはりまだ「父母が苦しいのは、全て私のせいだ」「私が何とかしなければならない」と思い込んでいた私は、まだ実家の家計管理に固執しています。
父母二人ともがその全容をなかなか理解できないのは、きっと私の説明やアプローチに問題があるんだ、と思っていました。よってもっと分かりやすく、簡単にと更なる改善を重ねる度、母はヒステリックに「家計整理とか言って、あんたはお金を取る気だろう」「自殺してやる!野垂れ死んでやる!」と私を脅してくるようになりました。その度に私は電話口で震えました。
しかし数日後にはまた母から電話があり、とても反省した様子で謝ってくるのです。「エミごめんね。ちゃんと計画通り貯金する。エミに信じてもらえるよう、お母さん頑張るから」そう言います。
一体何度これを繰り返したでしょう。気が遠くなりそうです。
これもまたカウンセリングで気づきましたが、私⇔母の関係はそこに暴力が無いだけでDV加害者⇔DV被害者と同じです。つまりは共依存です。
・2019年1月~3月 父のように嘘をつく母。絶望的な怒りと悲しみから私を救ってくれたのは、1年前に再会を果たした高校クラスメイトのP君だった。私は彼に勧められ、やっとカウンセリングにたどり着く
実家の家計整理も全て終わりました。
母の話だと2018年に私が作った収支表に基づき、着実に貯金出来ているとのこと。かつてあんなに父の金銭問題で苦労した母だから、と私は母の言葉を万に一つも疑わず、それ以上詮索しませんでした。
1月実家に帰省した時に「計画通りだと、もう150万円以上貯まっているよね。これで多少病気しても不安ないね。良かったね」と言うと、母は「貯金?しまった!エミの言ってたこと、全然頭に入ってなかった」とのこと。
「一体どういう意味だ?」体中の血が湧き立ち、震えが全身に伝わります。私は貯金額を聞いてみました。
母の答えは「40万円」。
家計整理開始当初の4年前と比べ、増えるどころか減っています。私の中で明確に殺意が芽生えました。
数日して日本から香港に戻っても、頭の中は母への殺意に満ちており、それは私の日常の全てを覆い尽くすほどでした。
娘が既に海外留学していたのは、本当に幸いでした。持て余す怒りのやり場が無く、再会したP君と食事に行っても、その話ばかりしてしまい手が震え、身体が震え、そして涙が溢れます。不眠になり、近くの病院へ睡眠薬を貰いに行きました。
・親への怒りと悲しみに追い打ちを掛けるように、恋人からも突き放された私。もう立っていられなかった。生きる意味が見いだせず、今まで歩いてきた道も私自身も、全てを焼き尽くし、海に沈めてしまいたかった
当時私には2年ほどお付き合いを続けている人がいました。いつも彼の都合に振り回され、私が我慢をする依存的な恋愛でした。でも私はその彼がとても好きでした。彼が時折見せるその弱さは、まるで私そのものだったからです。実際に家族構成やその問題、お互いがたどってきた経緯が似すぎており、話していると私は自分と彼との境目が分からなくなってしまい、時々怖くなるのです。
3月頭のある風の強い夜、彼に自宅の下に呼び出されこう告げられました。「実はずっと以前から、あなたに女性としての魅力を感じなくなっていた。そんな状態でも定期的に会うのは、依存だ。もう連絡してこないで欲しい」
母への怒りと殺意、彼との別れ、私はもう立っていることが出来なくなりました。娘の存在が無ければ、鬱になっているか、衝動的な死を選んでいたかも知れません。
・真摯に私の話を聞き、カウンセリングを勧めてくれたP君。何の見返りも無いのに、人が時間と労力を使い何かをしてくれる、それは心から相手を想ってのことだと私は受け取り、カウンセラーを探し始めた。
そんな時、1年前に再会した高校時代のクラスメイト P君が涙を浮かべながら私に言うのです。
「親のことはもう放っておけばいい。彼氏も、そんなことを言う男はクズだ!別れて正解だ!でもエミちゃん、とっても辛いんだと思う。俺ではもうこれ以上のアドバイスも出来そうにない。親子問題などのカウンセリングに行ってみたらどうか。少しは楽になるんじゃないか。俺はエミちゃんに楽になって笑って欲しい。これからもっともっと幸せになって欲しい」
この友人から言葉以上の想いを受け取り、「今の私は、相当マトモではないのだろう」素直にそう思えました。
そして私はカウンセラー探しを始めました。親子問題を得意とする年上女性カウンセラーを幾人か選びました。私は年上女性が一番話しやすいからです。自分の大切な悩みを話す相手です。どんなカウンセラーなのか少しでも知りたくて、沢山ブログなどを読みました。
そして帰省時に会えそうな場所に暮らす、女性カウンセラーに電話をしました。そのカウンセラーとの月一、計10回のカウンセリングを経て、長い間蓋をしてきた様々な謎が解け、私は約40年も抑圧してきた感情を解放し、自分と親との関係を俯瞰出来るようになりました。そしてやっと、母と自分に線引きが出来るようになりました。
もっと早くカウンセリングに臨めば良かった。そんな風にも思いましたが、この時こそが、私のそのタイミングだったのでしょう。
2019年4月 きょうだいM子の精神疾患が寛解しても、見識の狭い親は彼女を守ってくれる機関や場所に一切繋がなかった。私は彼女と同じような立場の人をサポートしたい。その想いから福祉系の通信大学3年に編入。
M子のような精神疾患を生き抜いた人々が居場所と仲間を見つけ、尊厳を以て生きていける社会。
不遇な家庭環境にある子供たちが、自分の未来に限りない可能性を見出せる社会。
自分や自分の未来、何も諦めなくて済む社会。
私は社会を構成する小さな部品だけれども、何もしなかったらゼロ、何かしたら+1にはなる、1は2となり、きっと3になる。
そう考え、日本の福祉系大学の通信学部に入学しました。
そう言えば、高3の時1校だけ取り寄せた願書も福祉大学だったっけ。
長い回り道をし、また元の道に戻ってきたような気がしました。いや、回り道ではなく、それだけの時間と体験、気づきが必要だったということでしょう。人生の出来事に無駄なものはありません。
2020年8月 母との共依存の終焉。私はカウンセリングのお蔭でやっと母と自分の境界線を引けるようになり、母とは関係断絶を選んだ。母の人生は本人の選択の結果。私は私のオリジナル人生を選択をしていきたい。
来月は母の誕生日だ。クレジットカードのポイントを整理し、金券に変えてあげよう。ネット操作が出来ない母に代わり、私は1年1回このような作業をしていました。
家計整理以来久しぶりに入ったその母の会員サイトには、また乱用が始まった買い物履歴がありました。私は母に電話をし「また沢山使うようになったんだね。以前約束した通り、今からカードは解約するね」と言いました。
母はまたヒステリックに泣き叫び出しましたが、「そういう約束だったでしょう」と私は電話を切り、サクッと解約しました。以降、母とは連絡を絶ち今に至ります。それが一番お互いの為だと、思います。母を丸ごとは許せません。
私は母を許せない自分を赦しました。
親に分散していた私のエネルギーが全て自分の元に戻ってきたからか、関係を断絶してから良いことしか起こりません。
2021年10月 ギャンブル依存の父が逝去。手指は全て関節曲がり機能せず、2回に渡る下肢切断。腸まで摘出した最期。コロナ禍で日本へは帰れなかった私の代わりに、幼馴染らが全てを手配してくれた
ギャンブル依存の父が亡くなりました。この10年で2度の下肢切断と原因不明の手指10本全ての歪み。歩くことも、掴むことも出来なくなました、もう階段を上って人の部屋に入り、財布や引き出しから何かを盗むことも出来ません。食に異常な執着を見せ、もはや人間だとは思えませんでした。
最後の入院で腸まで抜き取られ、最期を迎えました。「先祖の祟りだ、天誅だ」と最期まで自分に向き合うことの無かった人でした。
ただ、この父の見つけた古新聞広告により、私は香港へ来ることが出来ました。お蔭様で、自分と向き合い負の連鎖を断ち切ることが出来ました。これも私のお役目だと、そう思います。
コロナ禍直前に日本へ帰省した際に、幼馴染達に父の葬儀プランを話し、「何かあれば頼む」と頭を下げてきました。父はもう長くはない、と私は思っていたからです。それが功を奏し、幼馴染達が尽力し葬儀などを手配してくれました。有難いことです。
・香港と娘が暮らす台湾に同日朝に現れた、凛と立ったまま死んでいる立派なトンボ。幼い頃からお仏壇を通じ接していた父方祖父からの父逝去のお知らせ。「一時代終わった。後は頼むよ」と言われたように感じました。
父逝去の1週間前の朝、私の暮らす香港と、娘の留学先である台湾に立派な大きな死んだトンボが同日に現れました。恐らく父の故郷島根に眠る祖父(私の父の父)がお知らせに来てくれたのではないか。私はそう思います。
そしてお通夜の夕方、私は香港の自宅台所で初めてヤモリを見かけました。赤ちゃんヤモリでした。
私が近づいても逃げないため、父だと思いました。足はちゃんとありました。私は「お父さん、お疲れさん、大変やったね」と声をかけ、窓からそっと逃がしてやりました。これで、父もやっと自由になれたのではと思います。
2022年3月現在 父の死から私の流れが変わりました。福祉系通信大学は3月に卒業。カウンセラーとして身を立てる覚悟を決めました。
無事に通信大学を卒業出来ました。しかしコロナ禍で日本との往来が不自由すぎ、福祉系国家資格受験は見送ることにしました。もう少し、香港にいよう。
そんな決断をしたのが、父の逝去と前後していた2022年9月~10月頃です。
父逝去と前後して、新しい流れがやってきました。
親しい友人からの助言に喚起され福祉以外の道を探そうとしていた私の下へ、別の友人からカウンセラーへの道を示す連絡がたまたま入りました。このような流れは、導きです。そう感じたため、流れに乗ることにしました。
・2020年 自分の香港在住25周年に思うこと。
「依存と執着」から「自由と信頼」へ。つまりは、被害者ポジションから幸せポジションへ。
一人娘は、別の国で動物に囲まれ大学生活を謳歌中。前夫も元気で相変わらず私や娘には良くしてくれます。
私達3人は、とても自由です。時間を掛け積み上げてきた信頼関係がお互いあるからこそ、娘が成人した今も適度な距離感を保ちながら家族で居られます。
日本の原家族の中に蔓延していた「依存・執着」の関係は、私の香港の現家族に於いて「自由・信頼」にカタチを変えました。
この事実には、筆舌しがたい深い喜びを感じます。
そして考えてみれば、今の私は25年前と同じくらい身軽なのです。
しかしもうあの20代半ばの尽きることない気力や体力は、ありません。
ただ心は、この香港を含むアジアで存分に育ててもらい25年前よりずっと豊かになりました。
カウンセリングにより救われた今の自分だから出来ること、それが自らもカウンセラーとなり人に寄り添うことなのだと思います。
窮地から私の命を救ってくれた幾人もの友のように、絶望している方々に寄り添い伴走できるカウンセリングを提供しています。
私の体験が、どうか誰かの灯となりますように。
そしていつか、カウンセラーなんか要らない地球になることを切に祈ります。
読んで頂くご縁を頂き、大変ありがとうございました。
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