毒親の因縁を断ち切って自由なあなたを生きる「オリジナルライフメソッド」香月映見です。
今日もブログを読んでくださり、大変ありがとうございます。
今日は「ギバーとテイカー」について。
この前編では、主に「テイカー」について書き進めてみますね。
中編 【与える人「ギバー」が決して相手に与えないものとは?】では、「ギバー」について書いています。https://original-ownlife.com/blog-2023-12/
その前に、ちょっと説明いたしますね。
◆「ギバー」「テイカー」、あともう一つは?
「ギバー、テイカー」これらの呼称については、聞いたことある方もいらっしゃるかと思います。初耳だ、と思われる方も「ギブ&テイク」と言う言葉は御存知ではないかな、と思います。
ギバー Giver とは「与える人」
テイカーTakerとは「受け取る人」「奪う人」
「ギブ&テイク」と言うくらいですから、「与える」&「受け取る」はバランスよく半々くらいが良い。簡単に言えばそういう理解ですね。
つまりは抹茶・・ではなくて、「マッチャー」(Matcher)と呼ばれる立ち位置が、バランス的には一番良い、ということです。(〇〇と△△がマッチする!→ピッタリ合う、符合する、その「マッチ」です)
「マッチャー」とは、「与える」「受け取る」のバランスが整っている人とご理解くださいね。
◆「ギバー」と「テイカー」、身近な分かりやすい例は毒親の夫婦関係
このブログを読んでくださる方は、毒親運営の機能不全家族で育った方が多いかと思います。毒親は父母がそろっている場合、共依存関係にあるケースもとても多いです。
共依存とは「苦しいから離れたいのに、離れられない。もうこんなに人生が暗転しているのに、なぜか離れられない」関係です。
お互いの境目が曖昧で、何か事が起こってもそれが相手の問題なのか、自分の問題なのか分からなくなっている状態です。
その愛の中身は自由と信頼ではなく、執着と依存
父母のどちらかが「ギバーまたはテイカー」に偏った生き方をしており、それが組み合わさって苦しい夫婦関係を維持しているケースです。
毒親はギバー、テイカーどちらの役であっても、精神的に未熟で不安定、常に怖れで一杯!な状態なので、日常や人生の課題を回避する生き方をします。(なので未解決課題が年月を経るほどに、積もっていく)
そしてそれ故に人生も人格も年を重ねるごとに質が堕ちて行くため、本人はいつも不足・不満・不全感に苛まれています。
◆毒親は、子どもにとって恐るべき「テイカー」
私の原家族を例にしますと、父はギャンブル依存症のテイカー、母は見捨てられ不安が強いギバー(あくまで父に対して、です)
私という子どもの目線から見ると、父と言う人は母や私たちからいつも何かを奪うテイカーであり、鬱積した日々を被害者然と過ごす母という人もまた私から沢山のものを奪うテイカーでした。
テイカー父母は「ワタシの機嫌を何とかしやがれ~~」と激昂や暴力で表現したり、「グチグチの愚痴言いたい放題」「死にたい、死にたい」などの言動をし、子どもに安心安全な家庭環境を決して与えません。
それどころか自らの不足・不満・不全感を放り入れるゴミ箱として、子どもを利用します。子どもは非力で無力で、親が大好き。親が世界の全て。はけ口やゴミ箱にしやすい存在なのです。
これって幼子だった私たちに、父母という大人が依存している事実に他なりません。
私たち子どもがそんなテイカーな親から一方的に奪われるのは、時間、お金、心、労力、ビジョン、未来、自尊心などなどです。
そしてそれらの代わりに親から貰えるのは・・・ はい、罪悪感でございます。だってどんなに頑張ってゴミ箱役をやっても、大好きな親がちっとも幸せにならないんですよ。
幼かった私はそれを「私が悪いんだ」としか思えませんでした。そしてその感覚を、40半ばくらいまで延々と持ち続けておりました。長っ~~~~!
◆「テイカー」の生き方と苦悩
一言で言うと「依存的」な生き方です。全てに於いて「他力本願」。
平たく言うと「自分の問題を自分で何とかしようとしない」(自分が何とかできると思っていない、が実際のところです)
例)誰かに尻ぬぐいをしてもらえることを良いことに、「飲む(酒)・打つ(ギャンブル)・買う(異性関係)」の三大依存症に始まり、暴力・モラハラ・クスリなどがやめられない
だからと言って「受け取る」ばかりでは、お礼や感謝をどこにもにも還元できませんよね。
そのうち「受け取る」→「奪う」に形を変え、それが生き方の習慣となります。自らは何も人に与えず、ただただ奪う生き方は、周りから人がいなくなります。
避けられ嫌われ独りぼっちとなり、誰にも心を開けず孤独に苛まれます。そして奪っても奪っても、全然満たされないので底無しです。
そんな自分の傍にいてくれるのは、執着してくれるギバーだけ・・・ 本当にいびつな関係です。
ギバーは尽くしに尽くす人、糟糠の妻、耐えに耐える人、みたいな奥ゆかしく清廉潔白なイメージがありますが、実は相手の為にそうしているのではありません。
これはまた、次回に書きますね。
◆「鬼滅の刃」に見る、テイカーの本音
ところで皆さんは、「鬼滅の刃 遊郭編」観られましたか?今年2月に最終部分の2話が、映画館でも放映されましたね。(香港も2月下旬に放映され、もちろんソッコー観に行きました~)
私はこのアニメが大好きで、最初から全話観ています。あれは実に奥深いストーリーとキャスト構成になっています。この話をすると絶対にブログが終わらなくなるので・・・また別の機会に。
去年テレビで放映された「鬼滅の刃 遊郭編」にて、私は機能不全家庭育ちとして非常に心に刺さったシーンがりました。
この遊郭編で鬼としての主役を張った妓夫太郎(兄ぎゅうたろう)とその妹である堕姫(だき)。その二人の声が重なるシーンでの台詞。
「人にされて嫌だったこと苦しかったことを人にやって返して取り立てる」
「自分が不幸だった分は幸せな奴から取立てねぇと取り返せねえ」
正にこれ以上ないくらいの「テイカー」ぶりであります。
◆この台詞から気づくこと
テイカーと呼ばれる人たちも、誰かから散々「奪われてきた」と言うことです。これでもか、と常々虐げられて来た、ということです。
どうしようもなく消えて無くなってしまいたいくらい、その存在を否定され続け、惨めで忸怩たる想いに溺れながらも這いつくばって生きて来た、と言うことです。
実際アニメの中で回想されるこの兄妹の生育歴は、幾ら福祉的・人道的支援をしても追いつかないように感じました。見栄えの良くない兄に至っては、名前すら付けてもらっていないのです。
ネグレクト以前の問題です。存在そのものを、親からテイクされている。そう理解しています。
一見すると名前かと思う「妓夫太郎」ですが、これは妓楼の代金を集金する男性の総称です。
お寺をお布施などで支えてくれる関係者を「檀家さん」、相撲界では力士を後援してくれる人のことを「タニマチさん」と呼びます。「妓夫太郎」も、個人名ではなくそういう総称なのです。
兄の回想シーンからすると原因は「親」から始まっています。ただその親もまた、その親に散々沢山のものを奪われ続けて来たのだと、思います。
◆今から「どう生きたいですか?」
自分はもしかしたら「テイカー」かも、と思われた方。嫌な気分にならず、どうか少し過去を振り返ってみてください。親に散々何かを奪われていませんでしたか?いまも、そうではないですか?
奪う とは、何もわかりやすく何かを取られるということばかりではありません。
親からの度を越えた心配、過干渉、過保護もあなたの自由と選択を奪いに奪っています。
それらに「あなたを大切に思うからこそ」と言う親の都合の良い理由をあちこちから醸し出され、口封じされ、自立を阻まれていませんか?
まずはその悔しさ、自分の中で絡み合う何とも言い辛い拘束感、焦燥感や怒り、悲しみ、罪悪感などなど、カウンセリングで話して放して、楽ちんモードへと向きを変えてみませんか?
「一度話してみよう」と思われる方、私はそのあなたの勇気に敬意を払い、
心から歓迎し精一杯あなたに伴走させて頂きます。