毒親の因縁を断ち切って自由なあなたを生きる「オリジナルライフメソッド」香月映見です。
今日もブログを読んでくださり、大変ありがとうございます。
認知症初期である実母について、最近分かったことがあるので書いてみようと思います。
前編はこちらから
【令和コメ騒動から見えた機能不全家庭の盲点~前編~】
https://original-ownlife.com/blog-2024-15/
母への遠隔介護手配については、こちらから
現在進行形【2024年1月24日 母への介護手配始まる①~⑦
https://original-ownlife.com/blog-2024-05/
親子問題で生きづらい方が、このブログでどこかご自身の親との類似点を見出されたり、その背景などの考察の参考になったり、少しでもご自身の人生を謳歌されるキッカケになれば幸いです。
さてさて、前編の続きです。
な~にが「すぐ書けそうです」や~~?! と言う声が自分の中からも聞こえてきますが・・・
文字装飾などが出来ておらず、アップが今になりました😫😣
◆私が育った「あの家」の因果関係
私自身も親への爆発的な怒りから2019年から1年以上のカウンセリングに臨み、40歳~約12年の心理や精神世界の勉強を経て、現在あの機能不全家庭の因果関係を下記のように理解しています。
↓ ↓ ↓
・自己愛性パーソナリティ障害と思われる父(私の推測です)、その父の約40年に渡るギャンブル)
・見捨てられ不安が強くヒステリックな母、そして母から父ギャンブルへの延々助長
あの機能不全家庭は、この二人が織りなす夫婦超共依存が創り出したもの。
そして
あれ、実は私が背負い込む課題ではなく「夫婦という大人同士の問題だった」と、言うことです。
そう や~っと分かったのが、2019年に臨んだ自身のカウンセリング後の着地でした。
◆私の中の呪い
それを幼少期の私は「私が何とかせねば!」「私が父母を幸せにせねば!」と思い込み、以降40年に渡り父母の状態と私自身の自己価値と自己存在意義を、そりゃもうギュウギュウの固結びで直結させておりました。
逆に言うと、「そうできない私には何の価値もない」です。
なぜなら、父の借金に苦しめられる「母が可哀想だったから」です。
そして実は母から絶え間ない暴言を吐かれ、プチ家出を繰り返す父も、私から見るととっても「可哀想な人」でした。
だから
「私が父母を幸せにしなければならな~い!!」
「私が、私が、頑張らねばならな~い!もっと、もっと頑張らねば!!」
それは幼い私が私自身にかけた、呪いとも言えます。
子どもなのに、自分より30歳くらい長く生きている父母の人生に対して、責任を取ろうとしていたわけです・・・
で、ワタシこれ、向こう40年くらいやるわけです。
サラッと書いてしまいましたが、いま自分も改めてビックリしています🫨🫨
皆さんは、こんな呪いを自分に掛けていませんか?
◆コメと母
私ね、カウンセラー業も始めたし、結構客観視からの分析が出来ている、と思っていたのですよ。
上述したような、「あの家」の様々や、幼き自分が自分にかけた呪いの仕組みもね。
ところがです。
まだまだ、でした。
今回、ここに「コメ」が追加となりました~~。
父のギャンブルで、常にお金の不安を抱えていた母。
その沸点不明、爆発的なヒステリック言動に大いに薪をくべていたものが、有ったのです。
それが「コメ」だったのです。
これは本当に、盲点でした。
私は幸せなことに、戦争体験や飢えの体験がありません。
今回、令和コメ騒動、コメ20キロを母に送る、で初めてここに着眼出来ました。
◆その時、母の中で何が起こっているのか
・出来事:父のギャンブル、借金。
要はお金が無くなって行く、という出来事です。
・母の中で起こっていること:
↓
(ここからは無意識です。言わば母自身の「自動思考」)
・私はやっぱり大切にされない、また見捨てられる~~(怖れ①不自由な信念の発動)
+
・「コメを買うお金が無い!飢えて死んでしまう!!!」(怖れ②トラウマ発動)
↓
①+②=超絶巨大な宇宙規模の不安(母にとって、です)
↑
母本人は怖くて怖くて堪らないため、この不安に自分が浸食されぬよう自分を護らねばなりません。
つまりはこの自分を押し潰してくるような不安に、フタをする必要があるのです。
それが私がいつも家で怯えて見ていた、あの「沸点不明な、母のヒステリック」。
皿が飛び、包丁が出てくる、めっちゃ怖いやつです。
宇宙規模の不安にフタをする場合には、それと同じかそれ以上の質量の爆発的な怒りが必要なのです。
この
出来事→①②みたいな(不自由な)信念とトラウマ(いずれも潜在意識下に深く入っています)が発動+防御の怒りが出てくる時間って、
秒速なんです。というか、もっと速いかも。
あ、目にゴミが入りそう→反射的に目を瞑る、それよりちょっと遅いくらい、と言えます。
もっと分かりやすい例として、人に何か言われた→「カチンときた!」、こんな速さです。
◆母の思い出話
兄・姉・弟がおり4人きょうだいだった母は、決して裕福な家庭で育ったのではありません。
母の両親は茶畑で育てたお茶を摘み、家の裏で小さなお茶工場(こうば)をしておりました。
終戦前後は家にコメが無い日も多く、きょうだいでサツマイモを齧って寝たこともある、と幼少期の私はしばしば母本人から聞いておりました。
ただその思い出話を私にする母は、いつも明るい雰囲気だったんです。
「さつまいもを布団に持って入り、朝起きたら髪に皮が一杯ついてた」(笑)
みたいなやつ。
母自身もそれを「笑い話」にしたかったのかも、知れませんね。
また長くなり、これを中編といたします😃
◆中編の終わりに
盲点が視界に入って「あの家」の分析が進んだ一方、すんごい脱力感と倦怠感に襲われました。
戦争、飢え・・・
人類がいまだ、地球規模で克服すらできていないスケールの問題。
その恐怖を深く内包している母を笑顔にしようと、4~5歳だった自分は死力を尽くして奮闘していたのかと思うと、何だか もう。
そうか、「コメ」か。
コメだったのかぁ
殺気飛び交う呪いこもった家で妹は長らく病むし、被害甚大だったんですけど。
包丁片手に父を追いかける母の姿に怯え立ちすくむ、あの頃の私に大声で伝えたい!
「今や!エミちゃん!米びつ持ってこ~~い!」って。
コメはいつだって、母のいるあの空間に実際あったんです。
「一度話してみよう」と思われる方、私はそのあなたの勇気に敬意を払い、
心から歓迎し精一杯あなたに伴走させて頂きます。