毒親の因縁を断ち切って自由なあなたを生きる「オリジナルライフメソッド」香月映見です。
今日もブログを読んでくださり、大変ありがとうございます。
今日は毒親運営による機能不全家庭育ちさんアルアルの、完璧主義について書いてみようと思います。
◆完璧主義を手放すには
この地球には、そもそも「完璧なもの」という絶対的な存在はなく、私たちの周りに在るものは全てが流動的で変化し続けるもの、と言えます。
なのでいきなり結論ですが、「完璧なものは無い」と言うことを前提に生きること、です!
そして私たちの周りに在るものが全て流動的で変化し続けるものであるならば、存在しない完璧を追い求めるより寧ろ「自分が変化変容していけること」こそが実は大切だったりします。
例えば輪廻転生という概念を以てすると、何かを学ぶと自分の魂が決めて来た85~100年のニンゲン人生を生き切っても、完璧でないからこそ、ほぼまた生まれ変わります。

◆私たちの概念の中に在る「完璧」というもの
皆さんは、何を以て「完璧」と捉えてらっしゃいますか?
これ、改めて聞かれると・・・よく分からなくなりません?
例えば、非の打ち所がない とか、一分の隙もない とか、何をしても揺るがない とか 私の中で「完璧」とはこういうスゴク曖昧で抽象的な「状態」みたいなものなのです。
完璧な存在というものが在るのならば、恐らくそれは神とか宇宙と呼ばれるものであり、決して生きとし生ける生身のものではないように思います。
なぜなら私たちは、本能的な三大欲求には完敗します。
その証拠に寝不足や空腹で簡単に機嫌が悪くなったり、モチベーションだだ下がりになったり・・・全く以て「完璧」とは程遠い存在だからです。
◆そもそも自分の思う「完璧」は、どんな基準なのか
不安定な親もとで育った私たちは、多分にあの感情ジェットコースターみたいな親の気分や機嫌に振り回される生育歴だったと思います。
例えば、何か出来事があり「やっぱり」「いつも」「また」「お前が悪い」と言われる毎日だったとします。
その際、謝っても謝らなくても、どっちにしても邪見に扱われたり、見下されたり、蔑ろにされたり、ヒドイ場合はよく分からない理由で罵声を浴びせられたり、殴られたりするご家庭もあると思います。
こんな風に考えると、機能不全家庭育ちの持つ一種の習慣「完璧主義」というのは、何をどう完璧にという明確な基準に則っているのではなく、

ただひたすらどっちに転んでも自分への被害が最小限に済むように・・・という超消極的な基準だったのでは、と自分を振り返って思う次第です。
なぜそんなに消極的基準なのか?
あの親に愛されるためです。
愛されたいから、です。
少しでも「いい子」と気に入られ、(その自分の存在自体を)(もし出来たら、少しでも大切だと)認めてもらうため。
つまりそれは、あの大変な家で自分が命を繋ぎ生き延びるため。
自分の命を自分で護るため。
◆完璧主義がもたらす弊害①
それは、ハードモードな人生の日々です。


子供の頃、あの家では自分の命を護って来た完璧主義が、大人になり社会に出ると自分の首を絞めてきます。
「○○せねばならない」
「〇〇であるべきだ」
そうやって自らが自分を追い込み、必要以上の責任をしょい込みます。
誰かが燃やしている真っ赤に焼けた栗だって、頼まれてもいないのに・・・わざわざ拾いに行きます!
しかも、これまた素手で!😫😣

結果、色々がとんでもなく ますますハードモードになっていきます。
◆完璧主義がもたらす弊害②
攻撃力アップ!(←その攻撃、本当に必要?😟)
出来ない自分を責め、幾ら何をどうしても「完璧」からほど遠いちっぽけで無価値な自分を人に知られてはならないため、往々にして(自分から見て)「ちゃんとしていない人」「責任を果たそうとしない人」に対して、先制攻撃を仕掛けたりしてしまいます。
攻撃は最大の防御なのです。
その時の武器は、必殺「ワタシだけの正しさの物差し」です。ブンブン振り回します!
これを繰り返すと、当然人間関係は学校や職場、何かのコミュニティでもギスギスしたものになり、結果「独りぼっち感」が募っていきます。

①②ともに、過去のワタシです、はい。
幸い学生時代には出なかったのですが、特に香港へ来たばかりの時から15年働いた職場で、5~6年目の30前半の頃かな、やらかしておりました。
◆やらかし続けた、その後
そんなワタシは、30後半からとっても優しくなります。
理由は・・・香港人みんなから嫌われたから?ではなくて(嫌われて独りぼっちになったのは、事実です。)
毎日疲労困憊、過労死しそうになり、もう人を攻撃する力が尽きたからです。
そこまできて、や~~~っと同僚や後輩に何かを頼み、そして任せられるようになったんです。
あの頃のワタシ(25歳~40歳)の耳元でささやいてあげたいです。
「完璧からほど遠い自分を一番見たくなくて、許せなかったのは、本当は誰?」って。
◆完璧主義を手放す考え方、その①
それは冒頭に申し上げた「そもそもこの地球に完璧なものはない」という前提を持つこと。
私たちの日々の暮らし、つまり人生という時間は「完璧」という理想に向かって努力を重ねるプロセスだと言えます。

だからね、しばしば自分の歩いてきた軌跡を振り返ってあげてくださいよ。
うわ~!結構頑張って登って、歩いて来てるやん!そう思ってあげてください。(なぜなら、それが事実だから)

例え私たちの肉体の寿命が来ても、現実的には何ら完璧な状態を手に入れることは不可能であり、むしろその過程で生まれる成長や学びこそが、人生の豊かさを形作っていくということ。
そこをどれだけ楽しめるか。
生れ落ちてから肉体の最期の日まで、全てプロセスです。
日本の美とされる「詫び錆び」という情感は、完成状態や完璧さよりも、ひとつひとつの不完全さや変化、その過程にこそ美が宿るという考え方です。
不完全であり、変化していくものだからこそ、余白も多く、そこに様々な可能性が秘められております。
私の好きな京都龍安寺です。
https://www.youtube.com/watch?v=ZLQa391uKug
そして
私たちは日々成長を重ねています。
そういう意味では、歩き続け登り続けて来た階段の今踏みしめるその足の位置、「今この瞬間の自分」が完璧に一番近い、と言えます。
事実、機能不全家庭育ちは傷だらけで出血なんかもしながら、相当頑張って生きてきています😊
◆完璧主義を手放す考え方、その②
そしてそして、
完璧主義を手放すのにとっても大切なことがもう一つ。
それは自分は何かを完璧に出来ないことで、一体何を本当は怖れているのか、を自分で知ってあげることです。
そのとんでもない「怖れ」を見ないように、そしてそこから少しでも遠ざかれるように、私たちは「〇〇せねばならないぃぃぃ」と自分を駆り立て、追い込み、鞭まで自分に打ち付けるのです。
って考えると、私たちはかなりひどいことを自分に対してしているんですよね。
ここは一旦、「仕方ない」のです。
なぜなら、自分を大切にすることが出来ない・分からない親に育てられたから、です。
◆自分への問いかけ
自分が一杯一杯になっていることに気付いたら・・・
「完璧にせよ!さもなくば」と自分に声掛けしてみましょう。
さもなくば・・・あなたにとって一体どんな怖いことが起こりそうですか?

誰にどう思われそうですか?
誰に何を言われそうですか?
誰に見放されそうですか?
そしてその時、あなたはどんな痛みを感じそうですか?
◆カウンセリングで出来ること
完璧主義、いつも一杯一杯な自分
→ここは一旦「仕方ない」
→実は「全然仕方なくない」
「へぇ~そうだったんだ!」
「ふ~ん😲😲」
「ああ、だからワタシって完璧主義だったんだ」
という【自分の軌跡を知ってあげるプロセス】を、カウンセラーと一緒に一歩一歩体験して頂く時間が、カウンセリングです。
「一度話してみよう」と思われる方、私はそのあなたの勇気に敬意を払い、
心から歓迎し精一杯あなたに伴走させて頂きます。