【主体的生き方】と【反応的生き方】~前編~鬼滅の刃から見える生き方の二極化と私たちの選択

毒親の因縁を断ち切って自由なあなたを生きる「オリジナルライフメソッド」香月映見です。

今日もブログを読んでくださり、大変ありがとうございます。

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そんな私たちが愛着障害とアダルトチルドレンを克服し、カウンセラーとなるまでの軌跡を記しております。どうか必要な方に届きますように。

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さて今回は、「主体的生き方」と「反応的生き方」について書いてみようと思います。また大好きな鬼滅の刃を例に挙げます。

このアニメのストーリー、広義では陰陽の世界や宇宙摂理を語り、狭義では機能不全家族で私たちが感じて来た抑圧や理不尽さや心の痛みや傷つき、社会で感じる生きづらさ、そして「だから自分はどう生きるのか」という選択を語っております。

『鬼滅の刃』あらすじはこちらから
https://original-ownlife.com/blog-2023-19/

■先ず「主体的生き方」って?

主体的生き方とは、自ら決めて動くこと(内なる動機がある)。

そして自ら決めたからこそ、その言動に自分として責任を取る準備があります。(あくまで大人の場合です。子どもには当てはまりません)

鬼という悪者に立ち向かうこの鬼殺隊の隊士たちは、それぞれの志を胸に、己の命を賭して超危険な任務に挑みます。

彼らのほとんどは大切な家族や友人を、鬼により亡き者とされています。そのメンバーには、弱者ながら精一杯戦い自らも心身に大きな傷を負っている者、特異な体質ゆえに社会から つまはじき にされた者もいます。

彼らは当時、当然の如くのたうち回るほど嘆き悲しみ苦しみ、絶望的な孤独を味わいました。

そして、厳しい訓練を経て隊士となるという手段を以て「鬼の撲滅」(社会平和の実現)という目標を、自らの人生に掲げます。

彼らは、過去の苦しみと悲しみをゴールとせず、自分の人生の「プロセス」とすることを選んだのです。

だからと言って、過去のその筆舌しがたい出来事を忘れたわけでも、鬼を許したわけでもありません。

私のカウンセリングに来て下さる方々は、親との問題を抱えてらっしゃることが多いです。

なので、主体的生き方を例えて「人生の舞台であなたが主役に返り咲く」「あなたが人生の主権を取り戻す」「運命という命を運ぶ人生のハンドルを自分が握る」というような言い方で、相談者様へお伝えすることが多いです。

そして「許せない人や許せない出来事を許す必要は、ない」ともお伝えしています。

■では「反応的生き方」とは?

反応的生き方とは、他人や状況に自らの言動が左右される生き方ですここでは特に「人」に焦点を当ててみます。なぜなら私たちの人生に於ける悩みの8~9割以上は「人間関係」と言われているからです。

・人(親)の言動に振り回される
・人(親)の評価が気になる
・人(親)の機嫌に振り回される
・自分の意思というよりは、世間を含む多勢に従ってしまう
・「しろ」と言われたからやる

これらの外的要素に瞬間的・感情的に反応して行動するため、その反応から出た自分の言動に自分が責任を取る準備ができていません。(これもあくまで大人の場合です。子どもには当てはまりません)

鬼滅の刃 鬼側の陣営は、いつも鬼のボスが配下の鬼たちを圧倒的なパワハラとモラハラで絶対服従させます。

服従しない者には容赦なく切り捨て、死を与えます。

なのでボスが やれ! と言えば、断る術なく言うことを聞きます。やらざるを得ないのです。

ただこの鬼たちも人間だった頃は、社会や身分による理不尽な仕打ちにより愛する者の命を一方的に奪われたり、自分が追放されるような憂き目に遭っています。

なので元々の悲しみや痛みは、鬼も隊士も同じだと言えます。

そしてそしてココ →「鬼も隊士も決して過去を水に流してなんかいない」と言うことです。それはつまり、流せないくらいの傷であり痛みである、言うことです。

■隊士になるか鬼になるか

ここが、本人の選択と言えます。ただその選択で未来の明暗と幸福度は、大きく分かれます。

過去を人生のプロセスにし
◆己の志を以て、自分が奪われたからこそ、誰かを守る生き方をするのか

◆まだ引き続き誰かの支配と抑圧の下、自分が奪われたから、誰かからまた奪うのか

これ、機能不全家庭をサバイバルし大人になってから「だから私はどう生きるのか」の選択と全く同じなのです。

前者は自分をひどい目に合わせて来た人を越えて行く人間性の成長を指し、後者は自らの人生の大きな損ないを表します。

■「主体的」「反応的」な生き方の違いが顕著に表れるとき

それは、

物事が上手く行かなかった時、

上手く行かなくなってきた時 

です。

主体的に生きていると

その場合は自分の思うような結果に至らなかった時でも、人はそれを何とかしようとまた方法を探して努力をしたり、または諦めたり、自分なりの落としどころを見つけていきます。

この落としどころとは、善悪や正誤ではなく即ち「良も悪くも自分が納得するか」です。出来ないことに対する「もう自分なりにやるだけやった」諦めも、そこに入ります。

当たり前ですが人には誰にでも、出来る事・出来ない事があります。

出来ないこと:それは適性不適正、時間不足、資金不足、努力不足、体力不足かも知れません。またはタイミングの問題かも知れません。

挫折感は有れど、「上手く行かなかった。出来なかった」と自分の限界を受け入れられるのも、主体的生き方をしている人の特徴だと思います。

言い出しっぺは、自分ですしね。(誰のせいにも出来ないしね)

そして分析します「なぜ上手く行かなかったのか」→そしてそれを、次への糧としていきます。

因みにこのタイプは、「なぜ上手く行ったか」も分析しています。

要は一旦出た「失敗」「成功」という暫定結果に対して、実に冷静だということです。

反応的に生きていると

その場合、自分の思うような結果に至らなかった時は忸怩(じくじ)たる思いを抱えることになります。

「(差し出した時間や労力の割に)納得がいかないから!」です。そして自分以外に、その原因を探します。

だって、言い出しっぺは自分ではないから。

そして人は「納得いかない」ことに対して、怒りや恨みを覚えます。

「納得いかない」が長期に及べば及ぶほど当然気分は優れないままですから、怒りや恨みも深くなっていきます。

日常で負の感情に苛まれる時間が多くなると、人は冷静さを失い、視野狭窄になります。

よって上手く行かなかった原因を、分析することが出来なくなります。

そしてこれを言うと、身も蓋もないのですが・・・

そもそもこのタイプの人が上手く行かなかったプロセスを分析できるのなら、自分が反応的であることがその原因だと、気づけるわけです。

気づいたのなら、自分次第で主体的な生き方にシフトしくのは十分可能です。

■「反応的生き方」は、なぜシンドイのか

それは「言い出しっぺが自分ではない」→つまりは「目的が明確でないから」だと、私は思います。

反応的生き方の場合は外的要因に反応して事を始めるため、まず自分としての目的が不明確です。

無い、とも言えます。

そのため評価や進捗も自分承認ではなく、自分以外の誰かや世間によって決まります。なので、やっている本人としてはいつも何らかの不全感に苛まれることになります。(人や世間の評価は、コロコロ変わります)

そのうち やらされてる感 満載のシンドイことは、もうそのまま苦痛以外の何物でもなくなります。しかも、目的が見えないので期限も不明確であり、いつまでやったらいいかも分かりません。

こんな状態なら、そりゃ誰でもイヤになり匙を投げたくもなります。「そうしろ」と自分に圧をかけた人(または親)を恨む気持ちも湧いてきます。人間ならば、当然の心の動きだと思います。

主体的生き方の場合、自分で掲げた目的や期限が明確である為、そこに達するまでの手段は自ずと見えてきます。

そしてそれを実行し始めた時、過去の困難や苦難は全て今を生きるための「プロセス」(過程・通過点・経由点)となるのです(過去の痛みを忘れたり、許したりは出来てなくても)

■目的と手段が明確な一例

例えばあなたが「病める方々に少しでも元気になってもらいたい」と、医師を志したとします。

医師になるには、受験勉強をし大学の医学部に入り、卒業後に国家試験に合格して医師免許を得る必要があります。道のりの長い、不断の努力が必要な長期戦です。

一部の天才を除いて、親に言われたから、先生に言われたから、では到底乗り切れない道のりではないでしょうか。

この場合、最終目的は③「医師免許取得」。

その手段は①「まず大学医学部へ入学」であり、その時点での目標は②「国家試験合格」。

そして③が達成できたとき、①のための受験勉強も、①の大学入学・卒業も、②の国家試験合格も、全ては③のためのプロセスと化します。

■カウンセリングを経て「自分はどうなりたいか」「どう在りたいか」

上記では分かりやすいように、極端な例の主体的生き方を書いてみました。

カウンセリングに来て下さる方々(私もかつてその一人でした)に置き換えると、親との関係に悩んでいる渦中では「反応的生き方」をしています。

それが良いとか悪いとかではなく、その生き方で過酷な生育環境を生き抜いてきたのです。

その反応的生き方でなければ、あの家でのあの毎日を生き抜いては来れなかった、とも言えます。大げさではなく、これは事実です。

そして、親と自分の人生を線引き出来た後は「主体的生き方」にシフトしていくのが望ましいです。

親との問題解決は、決してゴールではありません。

また親との問題解決=主体的生き方への自動シフトではありません。

何より自分が「どうなりたい」「どう在りたい」と意識的に主体的生き方を選択することが大切になってきます。

私たちは大人になり「自分の人生を、自分でどうにか出来る能力」を既に内包しています。

よって自分が自分を見捨てない限り、反応的生き方から主体的生き方にシフトしていくことは可能です。

関連ブログはこちらから【毒親問題解決はゴールじゃない!】
https://original-ownlife.com/blog-2023-6/

次回は主体的生き方と反応的生き方に於ける、私たちのエネルギーの使い方の違いについて書いてみたいと思います!

「一度話してみよう」と思われる方、私はそのあなたの勇気に敬意を払い、心から歓迎し精一杯あなたに伴走させて頂きます。

★中編はこちらから【人生の残り時間を計算しました!さて、どう使いますか?】
https://original-ownlife.com/blog-2023-25/

★後編はこちらから【反応的な生き方をやめた後の世界とは】
https://original-ownlife.com/blog-2023-26/