【我慢と忍耐】は違~う!機能不全家庭育ちだからこそ磨かれた「〇〇と〇」は大いに役立ちます。

毒親の因縁を断ち切って自由なあなたを生きる「オリジナルライフメソッド」香月映見です。

今日もブログを読んでくださり、大変ありがとうございます。

日本は寒くなった~!と友人からの連絡がある度に、「香港は涼しくなった~!」と返信しております(笑)

湿度低く晴れの日が多い短い短い秋のような季節が、香港にもやってきました。一瞬で終わるんだけどね!

さて、今回は「我慢と忍耐」について書いてみたいと思います。

この2つは、似て非なるものです。

しかし根本で必要な要素は、同じです。この要素、実は機能不全家庭育ちの得意分野であります!

得意分野どころか、この上なく磨かれております。

特に40代以上の皆さん、すこぶる年季入っておりますよ~٩(ˊᗜˋ*)و

それは、「しぶとさ」です。

どうぞ最後まで、お楽しみくださいね。

まずは我慢と忍耐の違いから、です。

◆我慢とは

今までの成長過程で、これを散々してきましたね!いざ言語化するとなると、ちょっと困難さを感じるかも、です。

それぐらい機能不全家庭育ちの生き方そのものになっているのが、何かを我慢するという状態だからです。

一言で言うと「自分を押し殺す」「自分でない何かとして生きる」

自分の欲求・感情を抑え込み、本当はイヤだと思うことに耐え続けること。それが我慢ではないでしょうか?

◆際限なき日々。いつ終わるんだろう・・・(とも、考えなくなる)

そしてもう一つの特徴として、我慢というのは往々にして終わりの期日が決まっていません。

いつまで我慢したらいいのかが分からないということは、つまりは一体何のために我慢しているのかも分からなくなっていることであり、いつしか我慢しているということ自体に自覚が無くなります。

それが自分の日常であり、通常運転モードになっていると言えます。人は良くも悪くも「慣れる」のです。

この時点で既に「自分でない何か」として生きていると言えます。

その慣れはやがて習慣となり、私たちの人生を創っていきます。

毎朝歯を磨く、毎日お風呂に入る、靴はどっちから履く、お箸はどちらの手で持つ、などなど。特に何を意識するわけでもなくでも繰り返し行えることを「習慣」と呼びますね。

我慢が習慣化している、機能不全家庭育ちの方には多く見られる傾向です。

カウンセリングに臨む前の私も、漏れなくその一人でした。

自分が何を我慢しているのか、と聞かれたら、当時の私は「う~ん、別に」と答えたように思います。

こちらもご参考ください
【習慣が人生を創る】https://original-ownlife.com/blog-2023-5/

◆私たちの我慢はいつ始まったのか

恐らくは、幼少期に親の機嫌を見ながら過ごしていた日々から始まっています。

当時の私たちは親に衣食住を依存せねば生きていけませんでした。

理由はズバリ「子どもだったから」です。それ以外に、ありません。

そして友達より何より、幼子にとっては親が世界の全てです。

具体的には2歳~6歳くらいまで、もう少し大きくなって10歳以下くらいまでとご理解くださいね。

◆我慢し始めたのはなぜ?

機能不全家庭では親の気分・機嫌の上げ下げをしっかり見極めないといきなり殴られたり、怒鳴られたり、無視されたり、嘲られたりします。これらは、幼子にとって死に値する恐怖です。

大好きな親に嫌われ、見捨てられたら・・・死んでしまうからです。

そして

その単純で素直でかなり狭い了見と知識しかない、小さな頭で思いつくのは「親が私にそうするのは、私が悪いからだ」です。

だから(親から好かれよう、愛されようとして)親の機嫌を損ねぬよう「我慢」します

なぜ我慢一択なのか?

それしかできなかったから、です。

あ、どんなに成熟した親であっても、機嫌の悪い時ぐらいあります。ニンゲンですから。

ここで述べているのは、何回か などという生易しい時間経過と頻度ではありません。

わがまま放題で然る幼子が「我慢を習慣化する」くらいに、日常的・恒常的に親の気分や機嫌、家の状態そのものが不安定だった、という意味です。

◆アダルトチルドレンの始まり

それは「我慢」からだと、私は思っています。

我慢する必要のない年ごろから際限のない我慢をしてきた場合、上述した通り「私が悪い」→出来るのは「我慢のみ」→次の段階が「自分が何か親の役に立てば、大切にしてもらえるのでは」です。

子どもにとって「私が大切にしてもらえた証」 = 私がここにいることで、親が喜ぶ、親が笑顔になる!!

こんな単純な見極め方をします。

なぜ、そんなに単細胞なのか?

「子どもだったから」です。

「私」の存在価値が、親の笑顔や親の喜・楽の感情表現と直結してるんですね。

(実際には「私」がここにいてもいなくても、精神的に未熟で不安定な親は様々な出来事に振り回され、右往左往し、気分・機嫌がアップダウンします。「私」とそれらは本来関係なく、この不安定さは親自身の問題であります)

そんな理屈は全く分からない子どもだった私たちは、自分の適性やきょうだいバランスを考えながら家の中で「自分ではない何か」を演じ始めます。

  • 「私」が親に愛され、認めてもらうために。
  • 「私」が役立ち、親から見捨てられないために。
  • 「私」がここにいていい、と親から許可をもらうために。

アダルトチルドレンの役割については、こちらをご参考ください。
https://original-ownlife.com/zetsubo/#AC7

我慢という行為が吉と出るか凶と出るか、どう評価され、どんなものを貰えるのか、

全ては自分以外の人間に委ねられていると言えます。

そして・・期待と違うものしか貰えなかった場合、当然ながら納得いきません。

これは、子どもも大人も同じです。

◆その時 子どもはどうするか?

やはり「私が悪いんだ」もっと我慢をし、もっともっと役に立つよう「自分でない何か」を頑張りに頑張ります。

理由は、またまた もうこれしかありません。

「子どもだったので、それしかできなかった」のです。

なぜこうなるのか?

子どもはとても自分本位。視界の全ては、自分から見た一人称の世界。つまり、全く客観視できないのが子どもというもの + 人生の経験値ほぼゼロ であるからです。

◆でも、大人になるにつれ様相が変わってきます・・・

納得いかないまま「我慢を重ね」またまた際限なき時間が流れると、それは憎しみに変わり、やがて恨みに変わります。

こちらもご参考ください
【誰かを許せないあなたへ】https://original-ownlife.com/blog-2022-3/
【復讐という生き方】https://original-ownlife.com/blog-2022-4/

◆忍耐とは

対して忍耐とは、何かの目標や理想を達成するために困難や障害に耐え、自らの歩を一歩一歩前に進めて行くことです。

三歩進んで二歩下がることもある!でも一歩は進んでいるじゃないか。

七回転んだって、8回起きればいいんだ!

頑張れ、頑張れ、わたし!きっとできる!

あなたの人生で、こんな風に自分を鼓舞して前に進んだ時間が有ったはずです。

そして忍耐には我慢とは違い、期限があります。しかも自分で決めた期限です。

何かを達成したいから、そのために必要なことをするという自分の内なる動機からの行動であることが、我慢との大きな違いです。

山登りやマラソンに例えると、我慢と忍耐の違いは割としっくりきます。

頂上を目指す。ゴールを目指す。

誰がその山を踏破したいのでしょうか?

誰が白いテープを切りたいのでしょうか?

自分、です。

理由や背景は様々かも知れません。ただ根本は「私がそうしたいから」だと思います。

◆我慢と忍耐の最大の違い

まとめますと

  • やらされ感からするのが我慢 ⇔ したいからする、内なる動機からするのが忍耐
  • 際限なき長期間に及ぶのが我慢 ⇔ 期日が決まっている(決められる)のが忍耐
  • 結果は相手次第なのが我慢 ⇔ 結果は良くも悪くも自分が引き受けるのが忍耐
  • 誰かに何かを期待してするのが我慢 ⇔ 自分自身に期待してするのが忍耐
  • 忸怩たる想いが残るのは我慢 ⇔ 経験値や糧が残るのは忍耐 

そして、そして

自分に嘘をつきながらするのが我慢 ⇔ 自分を信頼しながらするのが忍耐

◆機能不全家庭育ちが誰にも負けないこと

冒頭に書きましたが、それは「しぶとさ」です。

これを読んでくださっているあなたは、例え家で何が起こっても、親がどんな状態でも、どんなに孤独で不安で怖くても、打ちひしがれもうダメだと何度もうずくまりながらも、しぶとく生きて来られたではありませんか?

だから私たちは、今ここにこうして生きております。

あなたが決して自分を見捨てず、自分を諦めなかったからこそ、命を紡ぎ続けいまこうして日々を暮らせております。

過去がどうであれ、これこそが「いまここ」に在るたった一つの真実であり、事実だと私は思います。

私たちが幼い時から自らの命を賭けて磨き上げて来た己の生きる術、それが「しぶとさ」です。

自分を振り返っても、あの親の下であの家で育った意味はこの「しぶとさ」を丹念に培養するためだったのではないか、とさえ思います。

これからはせっかく身に付けたその「しぶとさ」を、誰かへ何かを期待することに使わず、自分のために使ってみませんか?

◆「しぶとさ」の仕様変更

我慢から忍耐へ「しぶとさ」を有効活用するには、仕様変更が必要なのです。

それは一言でいうと「自分の整え」です。

際限なき我慢の日々で自分が自分につかざるを得なかった嘘を思い出し、聞いてあげ、そして受け止めてあげる、という作業です。

自分は一体何を想い、何を感じ、本当はどうしたかったのか。

何が悲して辛くて、何が嬉しくて楽しかったのか。

これをするには、自分以外の人にばかり向け続けていたその矢印を、自分の内側に向ける習慣に換えて行くという過程が必要です。

頑張りに頑張って自分についてきた長年の嘘を一つ一つ溶かしてあげるうちに、本質の自分に近づいてきます。

このような「しぶとさ」の仕様変更に、カウンセリングというツールはとても有効だと、カウンセリングにより人生と命を救われた私は思う次第です。

「一度話してみよう」と思われる方、私はそのあなたの勇気に敬意を払い、
心から歓迎し精一杯あなたに伴走させて頂きます。