【親ガチャ大ハズレ】私が持っていた機能不全家庭育ちの後遺症とは?

毒親の因縁を断ち切って自由なあなたを生きる「オリジナルライフメソッド」香月映見です。

今日もブログを読んでくださり、大変ありがとうございます。

のっけから断言しますが「親ガチャ」は、確かにあります。

ハズレだと、結構かなり大変で過酷です。これを読んでくださってる方々は、ハズレの方がほとんどではないかと想像します。

よくここまで、生きてらっしゃいました。

「親ガチャ」という言葉や、「毒親」という言葉は親に対して失礼だという意見もあります。勿論、親御さんもご自身なりに一生懸命人生を生きてらっしゃいます。

ここではあくまで「子どもの目線で見た」状態での「親ガチャ」「毒親」「機能不全家庭」、私自身の機能不全家庭後遺症について書いてみますね。

どうか必要な方にとどきますように。

**参考**
機能不全家庭 https://original-ownlife.com/zetsubo/#AC4
毒親 https://original-ownlife.com/zetsubo/#AC5

◆カウンセリング卒業って、どんな状態?

私自身、逆境の多い星回りに生まれたことは、今までの人生から自覚しています。「あんなこともこんなことも、良かった良かった~」なんて、カウンセラーとて思えません。(思う必要もないしね!)

自分として思えるのは「今の自分には、今までのこと一切合切が全て必要だった。私は私で良かった」

私のカウンセリングでは、この上述のような着地を以て5回~10回のコースを卒業される方が多いです。

ただ振り返ると「出来れば体験したくなかった」と思う出来事も、正直やはり有ります。

それは、母が包丁を持って「死ね!」と叫びながら父を追い回したこと。

「エミが出てくれたから、死ぬのやめる」死ぬ死ぬ詐欺電話が、父から何回もかかって来たりしたことかな、と思います。(出なかったら死ぬんだ、えらいこっちゃ)

まだまだあるけど!

こんなの子どもからしたら、怖いでしょ!普通に。

個人的意見ですが「今の自分であるためには、今までの全てが必要だった」という、自己愛溢れる 地に足着いた自己肯定・自己価値観 と「全てこれで『良かった』。あの親で『良かった』」という美し過ぎる認識は全く別のものです。

私たちは観音さんや菩薩さんではありません。

人間です。

思いたいように思い、感じたいように感じていいのです。

そして何より大切なのは「親の支配・影響から抜け出し、自分の人生の舞台で主役に返り咲くこと」です。

◆私も親ガチャ大ハズレ

どの親を選び、どんな困難や喜びを人生に設定し、一体何をするために(どんな自己実現をするために)この世に生まれて来たのか? それらは全て己の魂が予め設定してきたことだ、という概念に基づきますと、私はかなり恐る恐る、おっかなびっくり生まれて来ております。

(母の胎内で既に2回死にかけ、どちらも危機一髪で助かっている←これ、追加設定ではないか、と思うのです。「あわわわ~ ワタシ えらい張り切って大変な人生設定にしてしもた。ほんまに大丈夫かな。不安なってきた。一応生まれる前に運試ししとこ」)

香月映見、プロフィールはこちらから
https://original-ownlife.com/profile/

親ガチャも、大ハズレしております。ガラガラ すぽ~ん!と音が聞こえそうな結構なハズレです。

◆カウンセリングって、何か怪しい・・・

どう考えても悪いのは相手だ。相手が変われば済むことだ。相手が過ちを認めないから、私が苦しいんだ。私は間違ってない。私は正しい。なのになぜ、お金払ってまで私がカウンセリングに行かなきゃいけないの?

親やパートナーに対してそんな風に感じ、カウンセリングを躊躇ってらっしゃる方は、是非もう少し読み進めてみてくださいね。

先ず、仰る通りです。

カウンセリングでは、あなたを痛めつけ傷つけた出来事や相手そのものを、時を巻き戻し変えることは残念ながらできません。また外科手術みたいに、あなたが眠っている間に患部を除去することも出来ません。

ただあなたの心に刺さったトゲを勇気を以て一緒に抜き、消毒したり縫合したりして、今の状態を楽ちん・ご機嫌・快適に整えることは出来ます。その結果、過去の出来事や人への「捉え方」が変わっていき、それらをこれからの人生の糧にすることが出来るようになってきます。

「捉え方を変えるなんて・・・嫌なものは嫌だ、辛いものは辛い。綺麗ごと言うな!何でも美しく『学び』とか言って収めようとしても、そうはさせない。騙されてなるものか。私はあの人を許さない!私はあの出来事を許さない!」

生い立ち厳しい方ほど、そう思われるかも知れません。私もそう思っていました。

なので、カウンセラーから「どれも全部愛なのよね」なんて言われた時は、吐きそうになりました。

◆愛なんて、どこにもない!あるなら見せてくれ!

父の借金でめちゃくちゃになった家が「愛」だと?父が私の金品をたびたび盗んだことも「愛」か?家に巻き込まれ、心を病んだきょうだいの有様も「愛」? 老いた母が激高し「自殺してやる」と命を人質に私を脅したのも「愛」なのか?この苦しさのどこに「愛」があるのか?

ふざけるな!何様だ!あんなのが「愛」なわけないだろう!

私が「どれも全部愛」を到底受け入れられなかった背景・理由は、大きく三つあります。

1つの目は、ここです。

「攻撃は最大の防御」を実践し続けていたこと。

攻撃される前提でいつも何かに憤り、過緊張な臨戦態勢で生きていることを、カウンセラーである私は「被害者ポジション」と呼んでいます。

そこに陣取る理由は「ずっとずっと何度も何度も、実際に被害に遭って来た正真正銘の非力な被害者だったから」です。

これ以外の理由は、有りません。実際に私は不安定な親から罵声を浴びせられ、ヒステリックに怒鳴られ、金品まで盗まれ、とても傷つきました。こんなのが「愛」であるはず無いのです。

ただ、カウンセリングが進むにつれ不思議に思うようになってきました。

「そうはさせない。騙されてなるものか」←ココ、なぜ「誰かに何かをされる前提なの?」です。そしてこんなに四六時中身構えて・・・一体全体「私って、誰に何を怒ってるんだろう?」と、分からなくなってきたのです。

そして二つ目は、これです。

「愛の定義の違い」

私の理想とする「愛」の定義は、安らかで清らかで、美しくサラサラと心地よく暖かいもの。苦しみや痛みなんてものは、その定義には入っていなかったのです。

執着・依存・コントロール・支配に裏打ちされた私から母への「想い」、そして母から父への「想い」。

サラサラ感などどこにも無く、ひたすらギザギザ、ザラザラ、トゲトゲ、イガイガ、ギシギシグサグサ、ベタベタ(不思議なことに、擬態語で表すとどれもこれも濁音ですね)。

自分の定義から大きく外れているその歪な「想い」を、私として到底「愛」とは識別できませんでした。

しかも私はその「想い」を物凄い質量の怒りで蓋をし無きものとしていましたから、そもそも「怒り」の感情以外、自分でも認識出来なかったのです。

そうしてしまう理由は「幼き頃から何度願っても、その想いが叶えられることは決して無かった」からです。叶わぬ現実にもう二度と自分が深く傷つかないよう、「怒り」という蓋で自分の心を守っていたのです。

これもカウンセリングが進むにつれ、こんな風に思うようになりました。

私の持つ「愛の定義」って「自分が親に欲して止まなかった愛の示し方」ではないか?

例えば、私はいつも「この味にして!」と親にリクエストを出し続けているのに、親はいつまで経ってもその味が出せなかった、上手く調理できなかった、不味いものしか作れなかった。今もずっと延々と不味いものを作り続けている。「作らなかったのではなく、うまく作れなかった」そういうことなのかな、と。

最後、三つ目はこれです。

「人との関わり方が、上下関係オンリー」

これは毒親運営の機能不全家庭育ち「アダルトチルドレンあるある」の一つです。上下関係でしか人と関われず、そこには支配⇔被支配、命令⇔服従しかありません。

カウンセラーが「どれも全部愛」と言うなら「はい!そうですね!」と言うべきだろうか(被支配)、いや待てよ、従順になったらまた足元すくわれるかも。じゃあ、反発しとこうか? アカン アカン、そんなんしたら嫌われるし。

ああ、どうしたらいいか分からない→こんなに迷うのは、きっとカウンセラーの言うことに何か裏があるからだ!そうに違いない!

なぜこんなお門違いのことを、明後日の方向へグルグル考えるのか・・・

理由は、不安定な親が夫婦の問題や自分の機嫌など、自分が満たされない様々を子どもにぶつけ、子どものせいにしてきたからです。

機能不全家族では、明確なパワーバランスにより上下統制されているケースが非常に多いです。それはまるで、軍隊規律を守るが如くです。

ただ、ほぼ不変な軍規に比べ、不安定な親による正誤判定は虫の居所一つで簡単にひっくり変えるのです。

なので感情的に不安定な親の下で生き延びるには、常にその機嫌を伺い、親が繰り出す次の言動を予測し続けなければなりません。さもなくば非力な子どもはウッカリ地雷を踏んでしまい「負け」→「命が終わる恐怖」を体験します。

どう考えても地雷をあちこちに埋めること自体が問題なのですが、機能不全家庭ではその位置が気まぐれに変わり、しかも「踏んだお前が悪い」となります。

父母間にも上下関係があり、どちらかがどちらかの機嫌を常に気にしており、やはり支配⇔被支配で繋がっています。

このような上下関係は、子ども同士の兄弟姉妹間にも持ち込まれていることが往々にしてありますなぜなら私たちが人と関わる際の初期設定は、父母から学んだものだからです。

これもカウンセリングの過程で、だんだんと違和感を覚えるようになってきました。

ええっと、私は自らお金を払ってまでカウンセリングに臨んでいるのよねぇ・・・目的は「母への異常な怒りをどうにかしたいから」。 で、そこに「カウンセラーとの勝ち負け」ってそもそも必要なんだろうか?どう考えても、要らん気がする。というか、私ってそもそも一体誰と何を競っているんだろう。

◆毒親運営 機能不全家族の後遺症

上述した3つは、毒親運営家庭で育った私が持っていたほんの一部の後遺症ですが、あなたにも当てはまる部分はありましたか?

こんな紆余曲折を経ながら、私自身がかつて臨んだカウンセリングは毎月進行していきました。

機能不全家族の後遺症とはズバリ「不自由な信念」(潜在意識下の強い思い込み)「被害者ポジション」(いつも攻撃される前提の臨戦態勢)

これらが日々の出来事(人の言動や自分が見聞きしたこと)に過剰に反応し、それに対する私たちの言動や意識の方向を決めます。そして私たちの人生ナビの目的地も、これにより決まってしまうのです。

◆「どれも全部愛なのよね」の真意

愛って、実際何種類もあるんです。コトバとして思いつくだけでも、家族愛・夫婦愛・きょうだい愛・友愛・師弟愛などなど、ありますよね。

それと同じで、心地よい暖かい愛も、依存と執着にまみれた苦しい愛も、愛は愛なのです。カウンセラーはそれを言っただけなのですが、私は「ふ~ん、そっか、なるほどね」とはとても思えず、でした。(機能不全家族による後遺症のため、カウンセラーの言葉にガンガン過剰反応している良い例です)

◆カウンセリングで出来ること

カウンセラーの伴走により、相談者さんが「自分を知ること」です。

分かりにくいですよね。「自分を知る」って、具体的には下記のようなことです。

幼きあの頃、自分は一体何を感じ、何を想って沢山の「不自由な信念」を持つに至ったのか?何がどうだったから、自分は常に「被害者ポジション」死守なのか。

自分を、客観視していきます。親のことも家系の背景を踏まえ、客観視していきます。

これにより、負の感情に支配されることが段々少なくなってきます。

自分を1つずつ丁寧に見てあげることで、私たちのフィルターは「また」透明に近づいていきます。(赤ちゃんの頃は、透明そのものです。思い込み激しい赤ちゃんって、いないよね!)

それを通して見える世界は、どんどんありのままの色を取り戻し、フルカラーになっていきます。その結果、余り腹も立たなくなってきます。

そして人生ナビの目的地をも、変えることができます。

「一度話してみよう」と思われる方、私はそのあなたの勇気に敬意を払い、心から歓迎し精一杯あなたに伴走させて頂きます。